7/5 年間第14主日ミサ 説教

2020/7/4

        私に学びなさい-年間第14主日A年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音11章25-30節  知恵ある者や賢い者には隠す(25-27節)  マタイは11-12章で「論争者イエス」、福音宣教に対する人々の反応を描写します。 まずイエスの「業(わざ)」を伝え聞いた洗礼者ヨハネは、イエスのもとに自分の弟子たちを送って、「来るべき方はあなたでしょうか。┅┅」と尋ねさせます。イエスは旧約聖書を引用(イザヤ書35章5-6節、42章18節)し、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と答えて、自分の「業」を意味づけます(11章2-6節)。次いでヨハネについてのイエスの証言が続き、イエスの行われる「業」そのものが、「(神の)知恵の正しさ」を証明するはずだ(11章19節)、と話を結びます。フランシスコ会訳聖書では、「業」という2節と19節に出る言葉が、この部分の「包み囲み」を形成しています。  この「包み囲み」された部分の16-17節には、「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった』」とあります。これは、結婚式ごっことか、葬式ごっこへの誘いが無視されたことをなじる子どもの遊び歌です。この歌を引用することによって、イエスの「業」を無視して受け入れない人々を表しています。  また、11章20-24節では、イエスの「業」を見ても悔い改めなかった町を叱ります。コラジン・ベトサイダ・カファルナウムはイエスのガリラヤ宣教の中心地でした。  この拒絶や無理解の中で、イエスはなぜ神をほめたたえるのでしょうか(25節)。(「ほめたたえる」を「感謝する」と訳すこともできます)。この拒絶は「知恵ある者や賢い者には隠す」ということが神の「御心に適うことだ」とイエスは知っているからです。イエスはそれを知るから、拒絶の中にあっても賛美(感謝)の祈りをささげるのです。  27節はイエスが父を啓示する者であることを明らかにします。「すべてのこと」とは、父の言葉であり、行いであり、人に対する思いであり、それらすべてのことが父からイエスに渡されています。父なる神を人に知らせることができるのは、子であるイエスだけなのです。  「知恵ある者や賢い者」とは、文脈から見るとイエスを認めることができないユダヤ人、特にファリサイ派の人々を指しています。他方、「幼子のような者」とは、27節から見て、「子(イエス)が示そうと思う者」のことです。「幼子のような者」は複数ですので「子(イエス)」がこの世で選び出した信仰者(マタイの教会)を指します。  私の軛を負いなさい(28-30節)  イエスは「疲れた者」や「重荷を負う者」を「休ませてあげよう」と招き(28節)、「あなたがたは安らぎを得られる」と約束します(29節)このモティーフを受けて、12章では二つの安息日論争(畑の麦の穂を摘んで食べることと病気の癒し)が述べられます。よって、28節の「疲れた」「重荷」とは、生活の疲れや罪の悩みではなく、ファリサイ派の人々が民衆に押しつける厳格な律法解釈のことです。「疲れた者や重荷を負う者」とは、ファリサイ派の人々が、その肩に耐えきれないほどの重い荷物を乗せてしまったような人々(23章4節)を指しています。  しかし、イエスが「疲れた者や重荷を負う者」に約束された休息は、活動をやめてしまうということではありません。エレミヤ書2章20節では、民が神の前にひれ伏して教えを乞うという態度が「軛」と表現されています。さらに「神の軛」を言い換え「トーラーの軛」と表現し、神の意思の表れである律法の前にひれ伏して教えを乞うという意味で用いるようにもなりました。しかしファリサイ派の人々が教える「軛」は厳格で圧迫となっていました。このような「軛」を負うことに疲れた者たちに「私の軛を負いなさい」と呼びかけます。  今日の福音のまとめ  28-30節をまとめると、「柔和で謙遜な者」であるイエスが、「疲れた者や重荷を負う者」に、「私のもとに来なさい」、「私の軛を負い、私から学びなさい」と呼びかけます。イエスは休ませ、人々は「休み」を見いだせるからです。イエスの軛が軽くて、優しいのは、イエスが共に担ってくれるからです。  通常「軛」とは、二頭の雄牛を「軛」でつないで一対にするための、木でできた道具です。とすると、イエスはこの用語を用いて、次のように発言されていることになります。「私の軛を負う者になりなさい。そうして私のもとに来て働いて、私がそれをどう取り扱うかを見守ることで、重荷をどのように引っ張ればよいのかを学びなさい。私にそのことを手伝わせたら、厳しい労働もずっと軽く思われることであろう」と。  イエスから学ぶということは、彼が「柔和で謙遜な者」であるという事実に注意を払うことが必要です。この言葉は、あるレベルでは、イエスと23章4節に出てくるファリサイ派の人々とを比較対照させています。「(律法学者やファリサイ派の人々は)背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」。  「柔和な」と訳されるギリシア語はプラーユスです。プラーユスは、70人訳旧約聖書では「貧しい者」を意味するヘブライ語の訳語です。ヘブライ語の「貧しい者」は「圧迫されて身をかがめている」ことを表す語に由来します。「謙遜な者」の直訳は「心において低い」です。「心を低くする」ことは「貧しい者」の在り方です。ヘブライ語をたどっていけば、「貧しい者」、「柔和で」と「謙遜な者」とは同じ言葉にたどり着きます。「心において低い」とは、圧迫されて身をかがめる苦しみの中で、神に信頼して身を低くし、自己の強さを誇らない人のことです。私たちは、深いレベルでは、イエスの弟子として、私たちの師がまさに「柔和で謙遜な者」であることを、一心に見て学ばなければならないのです。                    2020年7月5日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第14主日 2020年7月5日 私に学びなさい マタイによる福音11章25-30節

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