7/19 年間第16主日ミサ 説教

2020/7/17

         「種」の譬え-年間第16主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音13章24-43節  毒麦の譬え(24-30節)  聖書学者たちは、25節、27節、28節a、30節b、は、古い伝承に二次的に付加されたと考えています。付加された箇所を除き、こうして得られた下記の古い伝承(24節、26節、28b-30節a)は、イエスに由来する確率が高いといわれています。  イエスは、別の譬えを持ち出して言われた。「天の国は次のように譬えられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」。  「毒麦」は若い苗の間は麦と非常によく似ていて、ほとんど見分けがつきませんが、穂が出てくるとその相違がはっきりわかりました。しかし、その頃には麦と毒麦の根がからみ合っているので、毒麦を抜き取れば、麦の根まで抜けてしまいました。毒麦の殻は軽度ですが有害で、めまい、はきけ、しびれを引き起こし、穀物に少しでも毒麦が入っていると、にがくて、いやな味がしました。そこで、刈り入れの時まで待って選り分けたのです。  イエスはこのような当時の農民の実際的な知恵を借りて、人が善と悪を性急に判断することの危険を教えています。人間社会には法律による裁きがありますし、これは社会生活を営むうえで必要です。しかし、人間1人1人には、神からいただいた人間としての価値、命の尊厳があります。人はこれまで犯すことはできません。だから、神のみが最終的に人を裁くことができます。自分は麦だ、その人は毒麦だ、と思って人を性急に裁いていると、刈り入れの時まで待つ主人(=神)の愛の広さがわかっていません。もしかしたら、神の側から見ると、自分こそが毒麦なのかも知れないのです。  からし種とパン種の譬え(31-33節)  「からし種」はごく微小なものの譬えにも用いられていますが(マタイ17章20節)、成長すると四メートルほどになります。譬え(31-32節)の意図は、その発端がどんな小さく目立たないものであっても結末には何よりも大きくなるという、最初と最後の対比です。  「パン種」の譬え(33節)の意図も、「からし種」の譬え同様、最初の微量のイーストと、それが粉全体を大きくふくらませることの対比です。  マタイが「毒麦」の譬えの直後に「からし種」と「パン種」の譬えを置いたのは、毒麦の譬えが、刈り入れ(終末)まであわてないで待つという忍耐と、刈り入れ(終末)にはきっぱりと神によって決着がつけられるという信仰を基にしているので、その文意の流れを受けて、「からし種」と「パン種」の譬えも同様に、最後には大きな結末が神によって約束されている、という信仰が求められていると理解したからです。  譬えを用いて語る(33-34節)  「譬え」(パラボレー)とは、ヘブライ語「マーシャール」に遡り(さかのぼり)ます。この語は、「比喩(ひゆ)、格言(かくげん)、諺(ことわざ)、寓喩(ぐうゆ)」などを意味し、さらに「謎(なぞ)」の意味を持ちます。したがって、イエスの譬えは、これを聴いて悟る者には天の国の秘密が開示される道ですが、悟ることができない者にとっては、譬えは謎(なぞ)でしかないという二重性を持ちます(13章11節)。  マタイでは、イエスの譬えを聞き、「天の国の秘密」を聴いて悟る者が「弟子」であり、悟らない者は「群衆」です。譬えの聴衆(24・31・33節)が、34節では「群衆」に変わります。イエスの譬えの聴衆は、「弟子」にもなれたし、「群衆」にもなれたのですが、結局は「群衆」となってしまいました。イエスの譬えを悟ることができず、「謎(なぞ)」で終わったからです。  毒麦の譬えの説明(36-43節)  マタイの教会は「世の終わり」に下される裁きという観点から「毒麦」の譬えを解釈します。40-43節のギリシア語原文に用いられている動詞はすべて未来形です。イエスを人の子と信じる教会は、未来に目を向け、「父の国で太陽に輝く」日を待ち望みます。  今日の福音のまとめ  マタイの教会の中には、善人も悪人も共存しています。この悪人は、悪魔が、「悪い者の子ら」、すなわち天の国に所属していない人々(という種)を蒔くことから生じるもので(13章39節)、彼らは「主よ、主よ」と呼びかけながら、御心を行わない偽預言者で(7章15節、22節)、彼らを見分けるのは容易なことではありません(毒麦の譬えの29節)。羊の皮をかぶっているからです(7章15節)。イエスは彼らを見分ける方法を教えますが(7章16節)、同時に彼らをも忍び、すべてを神の裁きにまかせることを教えます(毒麦の譬え24-30節)。いずれにしても、現時点では教会は、弱く貧しいものではありますが、成長した後には、思いも及ばないほど大きくなるのです。イエスは、この初めと終わりの鋭い対比を、「からし種」と「パン種」の譬え(13章31-33節)に描きます。今は毒麦に圧迫されていますが、神の裁きが下されるとき、「父の国で太陽に輝く」ことになります(13章43節)。  このようにマタイは教会の一人ひとりが善人と悪人のどちらかに属していることを教え、個人の生活を御心に合わせることを勧めます。「天の国の秘密を悟る」(13章11節)ことは「実を結ぶ」(13章8節、30節、32節、33節)ことです。イエスはそれを「種を蒔く人」「毒麦」「からし種」そして「パン種」と四つの「種」の譬えを使って教えているのです。                    2020年7月19日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第16主日 2020年7月19日 「種」の譬え マタイによる福音13章24-43節

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