8/2 年間第18主日ミサ 説教

2020/7/30

        ここに持って来なさい-年間第18主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音14章13-21節  「五千人に食べ物を与える奇跡」の背景(13-14節)  今日の福音で朗読される「五千人に食べ物を与える奇跡」は、他の福音書(マルコ、ルカ、ヨハネ)にも記されている出来事ですが、それぞれの強調点が異なっています。それは出来事の書き出し方に既に現れています。  マルコは、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ(あわれみ)、いろいろと教え始めた」(6章34節)と書いています。  「深く憐れんで」(スプランクニゾマイ)は、内臓まで動かされる切なる憐れみのことです。ユダヤでは、内臓は人間の深い感情の宿る所と考えられていました。マルコは、詩編23が歌うような「羊の群れ(=群衆)を養う憐れみ深い羊飼い(=牧者)」としてイエスを描き、さらに詳しく「いろいろと教え始められた」と記します。  マルコでは、「教える」という語が用いられますが、マタイでは、深く憐れむイエスは病人を癒します(いやします 14節)。マタイは、「五千人に食べ物を与える奇跡」の動機が、イエスの深い憐れみによるものであることを示します。  ルカは、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を癒しておられた」(9章11節)と述べた後、奇跡の描写に入ります。ルカにとって、イエスは「神の国」を運ぶ方(かた)であり、その証しとして奇跡を行う方(かた)です。  これに対して、今日の福音であるマタイ福音書は、「イエスはこれを聞くと」という書き出しです(13節)。イエスは洗礼者ヨハネの首がはねられたことを「聞くと」退きます。マタイは、ヨハネの悲劇的な死をイエスの死の予表として理解しています。マタイは、「五千人に食べ物を与える奇跡」をイエスの受難との関連で読むよう示唆していることになります。また、イエスが群衆をパンで養ったのは「夕暮れ」であったとマタイが15節で明記するのは、この奇跡を「主の晩さん」に結び付けるためです(マタイ26章20節)。  ここに持って来なさい(15-18節)  15-18節は、イエスと弟子たちの会話です。「人里離れた所」に自分たちがいることを心配した弟子たちが口火を切ります。弟子たちは「群衆を解散させて、自分で村へ食べ物を買いに行く」ことを提案します。イエスも食べ物が必要であることは認めています。しかし、弟子たちとは異なり、「(群衆を)行かせることはない。あなたがたが食べ物を与えなさい」と弟子たちに命じます(15-16節)。  すると弟子たちは、「ここに」は五つのパンと二匹の魚しかないことを説明します。弟子たちは食べ物を調達できるのは「村」であり、「ここ」ではないと考えているからです。しかし、イエスはそのパンと魚を「ここに持って来なさい」と命じます(17-18節)。  「ここ」とはイエスのいる場所です。マタイ福音書のイエスは、「ここ」が食べ物を与える場所だと考えています。  パンを裂いて与える(19-21節)  五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった(19節)。  イエスの中心的な行為は、「取り」、「賛美の祈りを唱え」、「裂いて」、「渡す(=与える)」となっていますが、これと同じ動作と順序が「主の晩さん」の箇所に見られます。  イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた(マタイ26章26節)。  こうして、マタイは「主の晩さん」のイエスとの関連性を暗示します。  また、19節後半では「魚」には何も触れず、「パン」だけが裂かれて与えられます。これは、「主の晩さん」で魚が振る舞われなかったことと無関係ではありません。マタイは、弟子たちに渡して群衆にパンを振る舞うイエスの姿に、いのちの糧を与える「主の晩さん」のイエスの姿を重ねています。  今日の福音のまとめ  マタイは旧約聖書を「律法と預言者」の書と述べます(マタイ7章12節)。「五千人に食べ物を与える奇跡」は、旧約聖書への連想が強い影響を及ぼしています。第一には、(預言者の代表者)エリシャが二十個のパンで百人に食べさせた上、余りまで出たという記事(列王記下4章42-44節)であり、第二は出エジプト記16章の、(律法の代表者)モーセに率いられたイスラエルの民が「荒れ野」でマナを食した物語です。ユダヤ教では、来たるべきメシアが現れる時、神が直接イスラエルの民を導いたモーセの時のようになると信じられていました。「人里離れた所」の直訳は「人のいない」場所です。「人里離れた・人のいない」を意味する形容詞が用いられています。この形容詞が名詞として用いられると「荒れ野」を意味します。神がイスラエルの民を「荒れ野」で養ったように、(律法と預言者の成就である)イエスも群衆を「人里離れた所」に導き出して養います。  人間の必要を根本から満たすのは「町や村」、つまり社会ではなく、「ここ」イエスです。これが、マタイがこの奇跡を語る目的です。神が「荒れ野」でイスラエルの民を養ったように、イエスも群衆を「人里離れた所」に導き出して養います。町や村から群衆を離したのは、社会を否定するためではありません。しかし、社会の論理に埋没すべきではありません。それ以上の力が「ここ」イエスから与えられることが知らされているからです。その力が社会の論理とは異なるのを明らかにするために、「人里離れた所」が選ばれたのです。                    2020年8月2日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第18主日 2020年8月2日 ここに持って来なさい マタイによる福音14章13ー21節

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