8/9 年間第19主日ミサ 説教

2020/8/6

         信仰の小さい者-年間第19主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音14章22-33節  ひとりで山に(22-23節)  イエスは弟子たちを強いて「舟に乗せ」、群衆を解散させた後に、ひとりで「山に」登ります。イエスは山で祈っていますが、夕方になってもひとりでそこにいます。この段落の舞台は「山」です。  聖書では、山は祈る場所、神と出会う場所です。モーセはひとりで山に登りましたが、イエスもひとりで山に登ります。マタイではイエスは「新しいモーセ」と見られています。  「五千人に食べ物を与える」奇跡を伝える先週の福音(マタイ14章13-21節)は、モーセに導かれて「荒れ野」をさ迷うイスラエルの民に神がマナを与えて養ったように(出エジプト記16章)、イエスも群衆を「人里離れた所(=荒れ野)」に導き出して養います。今日の福音もそれに対応して、モーセに導かれてイスラエルの民が紅海を渡った時、神が共にいて敵の力を打ち砕いたように(出エジプト記14章13-31節)、湖の上を歩いて弟子たちに近づくイエスは、神が共にいることを示します。イエスが歩いた「湖」も、紅海を表す「海」もギリシア語原文では同じ言葉(サラッサ)が使われています。  「五千人に食べ物を与える」奇跡の出来事も「夕方」であったことが明記されています。(14章15節)。聖書では、夜の闇は神の顕現への伏線となります。マタイは「夕方」であったことをここでも明記します(23節)。  湖の上を歩く(24-27節)  湖の上を歩くイエスを見て、弟子たちは「幽霊だ」と叫びます(26節)。26節の直訳は怖がり戸惑った 『幽霊である』と言いつつ そして恐れから叫んだ」です。並行箇所のマルコの直訳は「幽霊だと思った そして大声で叫んだ。なぜなら皆は彼を見た。そして怖がり戸惑った」です(6章49-50節)。  マタイは「思った」という語を省き、「怖がり戸惑った」を前に移動し、「恐れから」を加えています。こうして、「幽霊だ」という叫び(26節)は、弟子たちの恐れの大きさを表す叫びとなります。弟子たちは「幽霊だ」と「思った」のではありません。マタイでは、弟子たちは判断力がないのではなく、恐怖のために判断が狂い、イエスを幽霊と見てしまったのです。  主よ、あなたでしたら(28-31節)  「主よ、あなたでしたら」(28節)は二つの解釈が可能です。一つは「本当にあなたでしたら」という意味で、イエスかどうかを疑う言葉になります。もう一つは、事実を仮定の形で述べているだけで、「あなたでしたか」という意味になると解釈することもできます。  ここでは「あなたでしたか」の意味に取るのが良いと思われます。それは、結びの33節で、弟子たちは信仰を告白しており、マタイの描く弟子たちは「信仰がない」のではなく、「信仰が薄い者(直訳 信仰が小さい者)」だからです。  あなたは神の子です(32-33節)  弟子たちはイエスを拝み、イエスを「神の子」と告白します(33節)。マタイの描く弟子は、恐れのために判断が狂い、疑いを抱いてしまう(26・30節)「信仰の小さい者(直訳)」(31節)です。イエスは弟子に手を伸ばし(31節)、彼らが信仰を告白することができるように、支えています。  今日の福音のまとめ  「舟」という語は、四つの段落(22・24・29・32節)に用いられています。この「舟」は教会を表します。聖書では、夜の湖は死がはびこる場、悪霊が支配する場とされていました。イエスが湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた時(25節)、神の創造や救いの力に反抗する悪霊が支配する夜の湖の上で弟子たちの乗った舟が波に悩まされています(24節)。  「舟」が教会を表すのであれば、今日の福音は初代教会の宣教の生活を土台にして読むことができます。宣教にはさまざまな困難がつきまといます。迫害があり、拒絶や無理解があり、教会内にも分裂がありました。宣教がなかなか進まないという状況の中で、マタイはイエスと共に生活していたときに「イエスとペトロが湖の上を歩いた出来事」を思い起こし、それを福音として書き記したと考えることができます。  イエスは「信仰の小さい者よ(直訳)、なぜ疑ったのか」とペトロに尋ねます(31節)。マタイの描く弟子は「信仰がない者」のではなく、「信仰が小さい者」です。今日の福音の目的は、このような「信仰の小さい者」を叱咤激励することにあります。この点で、ある種の並行関係がヨハネ福音書によって、提供されていますが、そこでは信仰とは常に動詞であって、決して名詞では出て来ません。すなわち、信仰とは、所有することではなくて行動です。したがって、「信仰の小さい者」は、その小さな信仰を働かせなければならないのであって、さもなければ、使われていない筋肉のように、枯れてしまうでしょう、と警告を受けているのです。  「疑う」(31節)は、「二重」を意味する副詞からの派生語です。ペトロの心は、イエスに従って水の上を歩きたいという願いと強い風への恐れに分かれています。この心が分かれた状態が「疑う」ということです。実際、キリスト者の実存とは、信仰と疑いが混在したものです。したがって、キリスト者は「主よ、助けてください」(30節)と、常に祈らなければならないのです。                    2020年8月9日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第19主日 2020年8月9日 信仰の小さい者 マタイによる福音14章22-33節

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