8/16 年間第20主日ミサ 説教

2020/8/13

         カナンの女の信仰-年間第20主日A                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音15章21-28節  主よ、ダビデの子よ(21-22節)  ティルスは地中海に面したフェニキアの町で、カルメル山から55キロほど北にあります。シドンはティルスの北方35キロに位置するフェニキアの港町です。両方とも異邦人の町です。新共同訳は「この地に生まれたカナンの女が出て来た」と訳しています(21節)。すなわち、イエスはまだイスラエルの地にいて、これからティルスとシドンの地方に入ろうとされたとき、女性が国境を越えてやって来た、という意味に解することができます。  「カナン人」は、昔イスラエル民族がエジプトを出てパレスチナにやって来たとき、そこに住んでいた先住民族です。彼らは、イスラエルを忌み嫌い、縁を絶つべき民族でした(エズラ記9章1節)。彼らもまたイスラエルを憎悪していました。このような先祖からの民族的仇敵(きゅうてき)同士であるのに、この「カナンの女」は、悪霊に取りつかれた娘を思う一心からイエスに助けを求めます。「主よ、ダビデの子よ」は、イエスがそのような称号で呼ばれ、多くの癒し(いやし)の奇跡を行われたことを、この女性がすでに知っていたことを示しています。また、その知識に基づく彼女なりのイエスに対する信頼を表します。  子どもたちのパン(23-26節)  しかし、イエスは彼女に一言も答えません。弟子たちは、「彼女を去らせてください(直訳)」とイエスに願います(23節)。この言葉は、「追い払ってください」の意味にも、「彼女の望みをかなえて、返してください」の意味にも取ることができます。この段落の強調点が彼女に対するイエスの否定的な態度を示すことにあるなら、後者の解釈の方が良いかも知れません。弟子たちはカナンの女に同情し、早く癒してあげれば良いと思っているのに対して、イエスは彼女の願いを拒否し続けており、マタイは両者の対比を意識的に強調しています。さらに25節でもカナンの女は願いますが、それもイエスは拒否します。  なぜなら、イエスはイスラエルの失われた羊を導く羊飼いとして、神から「遣わされた」からです(24節)。「失われた羊」とは、エゼキエル書34章4-6節、16節などを背景にもつ表現で、イスラエル全体が確固たるものを失い神の導きを求めて頼りなくさまよう有り様を示します。ここでイエスはイスラエルをそのような状態にあると捉え、自らに与えられた使命は何よりもこのイスラエルを救いに導くことであると言います。  しかし、カナンの女はイエスの前にひれ伏し、いっさいの希望を託して(たくして)執拗(しつよう)に願います(25節)。それでもイエスはもう一度、彼女の理解を確かめるため、その使命を繰り返し述べます(26節)。「子ども」はユダヤ人、「犬」は異邦人を指します。ユダヤ人は異邦人を「犬」(ギリシア語 キュオーン 野良犬の類を指し、家に入れられるものではありません)と呼びましたが、イエスは軽蔑(けいべつ)を避けて、やさしく「小犬」(ギリシア語 キュナリオン 家庭でペットとして飼われている小犬を表します)と呼びます。  マタイでは、イエスの復活と共に異邦人宣教が始まります(28章19節)。今はまだ救いがイスラエルに与えられる段階でしかありません。だから、「子どもたちのパン」を取り上げることができません。イエスは自分の使命を確認するように、否定の答えを続けます。  主人の食卓から落ちるパン屑(27-28節)  27節の「しかし」の直訳は「それでも」です。文脈から「それでも」と直訳していますが、これは二語からなる表現で、そのまま訳すと「そして なぜなら」となります。カナンの女はイスラエルを優先するイエスの方針に同意しています。彼女は神の計画に従う信仰を持っています。  彼女は「子どもたちのパン」を願うことはしません。「主人の食卓から落ちるパン屑」なら、今、異邦人に与えられても神の計画を損なうことにならないはずです。  イエスは彼女の言葉に大きな信仰を見て、娘の癒しを保証します。今はイスラエルに救いが限られているときですから、「子どもたちのパンを取る」ことはできません。しかし、主人のものでも、「落ちたパン屑」なら、イスラエルの救いを横取りすることにはなりません。イスラエルを「主人」と呼び、神の計画に従おうとする彼女の信仰にイエスは動かされます。  今日の福音のまとめ  カナンの女は、イスラエルの救いを優先するという神の計画を理解した上で、さらに小犬と呼ばれても、小犬であることをわきまえつつ、謙遜(けんそん)と服従を持ってその信仰を表します。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」(28節)というイエスの言葉は、このような信仰理解に対する賞賛です。イエスは、彼女の謙遜を、信仰者にとって必要不可欠なものと見なしています。  神の恵みは、自分の力で善行をして、働きに応じて、神から与えられるのではありません。恵みは、神からの一方的な愛、贈り物です。カナンの女はただ謙遜にイエスの憐れみにすがるだけです。しかし、神は恵みを私たちに与えますが、神には計画があります。神の計画に謙遜に従うという信仰をイエスは求めています。  カナンの女は異邦人としてその信仰を賞賛された二番目の人物です(8章10節)。百人隊長にもこの女性にも共通することは、イエスの言葉の真意を理解し、それを全面的に謙遜に受け入れたことです。彼女の信仰の立派さ(28節)は、まさに信頼の大きさです。この信頼の大きさは、イエスに拒否され続けても、忍耐強く助けを願ったことから分かります。神への信頼に基づく、このような彼女の忍耐強さを、私たちは学ぶことができます。                    2020年8月16日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第20主日 2020年8月16日 カナンの女の信仰 マタイによる福音15章21ー28節

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