8/30 年間第22主日ミサ 説教

2020/8/28

   自分を否定し(捨て)、十字架を取り、イエスに従う―年間第22主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音16章21-27節  神の計画を打ち明ける(21節)  マタイの最初の受難予告 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。  マルコの最初の受難予告 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8章31節)。  マルコでは「教え始められた」となっているのに、マタイは「打ち明け始められた」という言葉で始まっています。「打ち明ける」は「神の秘かな計画を啓示する」という意味です。「苦しみを受け、殺され、復活する」という神の計画を弟子たちに打ち明けることの開始です。  サタン、引き下がれ(22-23節)  今日の福音の直前で、イエスがメシアであることをペトロが告白したとき、「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ」と応じ、ペトロの告白の正しさを認め、彼を祝福しています(16章17節)。  しかし、ペトロが受難予告したイエスをわきに連れていき、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめると(22節)、イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔する者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りつけます(23節)。  「サタン、引き下がれ」の直訳は「私の後ろに去りなさい、サタンよ」です。この「去りなさい、サタンよ」は、イエスに国々の栄光を示して誘惑した悪魔にイエスが語った言葉です(マタイ4章10節)。イエスが十字架へと歩むのを押し止めようとしたペトロは「サタン」であり、「去りなさい」とたしなめられます。しかし、ペトロに対しては、悪魔のときとは違って、「私の後ろ」が加えられています。イエスは漁師のペトロと最初に出会ったとき、「私について来なさい」と呼びかけていますが、これを直訳すれば、「来なさい、私の後ろに」となります(マタイ4章19節)。弟子であるペトロはサタンのようにイエスが進む道にたちはだかずに、イエスの後ろに回って、従うべき弟子なのです。  「あなたは私の邪魔をする者」の直訳は「あなたは私のつまずきである」です。「つまずき(スカンダロン)」の元来は「罠(わな)」を意味し、「罪を犯させる原因や誘惑」を表します。  ペトロが天の父のものとなって発言するときには、「幸いだ」と祝福され、人間の思いに囚われたときには、「つまずき」とされ、「サタン、引き下がれ(私の後ろに去りなさい)」と叱られます。十字架に向かって歩むイエスに立ちはだかるかぎり、ペトロは「神のことを思わず、人間のことを思っている」サタンなのです。ここでの「思っている」は、単純に「何かを考える」の意味ではなく、「心をそこに向ける」といった強い意味に使われています。ペトロはイエスの前ではなく、イエスと弟子との理想的な位置関係である「イエスの後ろ」に立ち、イエスに従うべきなのです。  自分を捨てるのは背負うため、背負うのは従うため(24-27節)  24節は三つの命令文を使って、弟子の取るべき態度を明らかにしています。自分(人間の思い)を捨てるのは、十字架を背負うためであり、イエスに従うためです。これこそ「命」への道であり、この「命」は全世界よりも価値があります(25-26節)。しかも、この「命」の確かさは終わりの日に再臨するイエスによって確認されます(27節)。  今日の福音のまとめ  イエスは「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(24節)と言い、弟子の取るべき態度を明らかにします。  「自分を捨てる」の直訳は「自分を否定する」です。この表現はヘブライ語にもアラム語にも本来のものはなく、マルコ8章34節と同様に、ルカ14章26節に見られる「自分の命を憎む」というセム語的表現の翻訳であるとの提案があります。マタイは「より少なく愛する」、自分の優先権を神よりも低めに置くと解釈しています。従って、「自分を否定する」とは、神の思いに自分の思いを従属させることを意味しています。  マタイが福音書を編集した時代は、ユダヤ教では政治的メシアを待望した結果、エルサレム滅亡(紀元70年)といった国家的不幸に見舞われ、しかも人々はいまだにそのようなメシアを待望して極端な行動に走る状況でした。「自分の十字架を背負いなさい」の直訳は「その十字架を取りなさい」です。ここでの十字架は、「イエスの開いた道」を象徴的に表しています。ですからマタイは、イエスの弟子は、人間的な栄光を求めるのではなく、師のあとに従って苦しみの道をたどる必要を説くのです。  自分を「否定して」捨てるのは、十字架を「取る」ためであり、イエスに「従って」歩むためです。マタイは、マルコの「命を救う」(8章36節)という表現の代わりに「命を得る」(25節)と言います。十字架を「取って」イエスに「従って」歩むことは、命(イエスとの交わり)を見出すことにほかなりません。自分の思いよりもイエスを通して示された神の思いを優先し、イエスの開いた道を歩むことの中に、イエスとの交わりがあるのです。                    2020年8月30日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第22主日 2020年8月30日 自分を否定し(捨て)、十字架を取り、イエスに従う マタイによ

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