9/6 年間第23主日ミサ 説教

2020/9/5

           兄弟を得る―年間第23主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音18章15-20節  兄弟を得る(15-17節)  マタイ18章は「教会の章」と呼ばれています。今日の福音の直前には「迷い出た羊」の譬えが語られています。「12節b ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13節 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14節 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(18章12b-14節)。  今日の福音では、「兄弟」に対して取るべき態度が語られますが、これは14節の言葉との関連のうちに理解することが必要です。罪を犯した「兄弟」は「迷い出た羊」なのです。  「忠告する」(16a節)と訳した語は「光にさらす」を意味します。忠告とは、滅びを望まない神の光にさらし、神の思いへと向けさせることです。罪を犯した兄弟に対する忠告は、「兄弟を得る」ために行わなければなりません。それが「天の父の御心」(14節)だからです。  一人で忠告しても聞かないなら、「二人か三人」で忠告し(16節)、それも聞かないなら、「教会」に言いなさい(17a節)と、イエスは命じます。教会には、その中心にイエスがいるからです(20節)。  教会にも聞き従わないなら、その人は「異邦人や徴税人」(17b節)と同様に、神に従わない者と見なされます。イエスを中心とする教会に聞き従わないことは、神に従わないことと同じだからです。  イエスが中心に(18-20節)  後半となる18-19節では、人称が複数「あなたがた」に変わります。「あなたがた」は、「イエスがその真ん中にいる二人、三人」、つまり「教会」のことだと言えます(20節)。「教会」は「地上」にあって、「天上」(=天の父)と結び付いています。教会が下す判断は天の父の判断を現します(18節)。  地上で教会が一致して願うことは何でも実現しますが、それを起こすのは「天の父」です。教会の願いは、それが神の思いを現すものである限りにおいて実現します(19節)。  教会がすべてをつなぎ、解く権威を与えられているのは(18節)、人間によるのではなく、教会の中心にいるイエス(20節)と、天の父に由来します。「つなぐ・解く」(18節)の直訳は「縛る(しばる)・解く」です。「縛る」は「許さない」、「解く」は「許す」の意味です。  今日の福音のまとめ  第一朗読で、神はエゼキエルに見張りという重い使命を与えます(エゼキエル書33章7節)。なぜ、彼にそれを命じたかというと、彼が語りかける相手が「イスラエルの家」ではなく、「この民の息子たち」(新共同訳は「同胞」と訳されています)とされているからです。彼が警告してきたバビロン捕囚は現実となり、イスラエルの内部に深い亀裂が生じています。捕囚によって分裂したこの集団はもはや「一つの民」として扱うことはできません。むしろ「この民の息子たち」一人ひとりに語りかけ、各人の条件に応じたきめ細かな助言を語る必要があります。このように個人主義が強調された捕囚の時代に、神はエゼキエルに「見張り」という重い任務を担うようにと告げるのです。  当時のユダヤ教では、多くの掟があり、その中でどの掟が最も大切か、ということが問題にされていました(マタイ22章34-40節)。パウロは、どのような掟であるにせよ、結局は、隣人愛ということに「要約される」と答えます(第二朗読 ローマ書13章9節)。  ここで「要約される」と訳された語は、もともとは「すべてを一つの頭に結び合わせる」ことを意味する動詞であり、そこから「要約する」という意味で使われます。隣人愛がすべての掟の頭であり、どのような掟にせよ、そこへと結ばれて初めて意味を持ちます。  しかし、聖書の述べる愛は根本的には「神の愛」ですから、隣人愛も無関係ではありません。律法は私たちに多くを求めているように見えますが、実はただ一つのこと、つまり神の愛に正しく応える私たちの愛を求めており、それが隣人愛という形で現されます。  今日の福音の直前の「迷い出た羊」の譬えでは、「小さな者」に対する配慮が強調されています。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)。マタイ18章で「小さな者」と呼ばれる人々は、「つまずきの可能性を持つ者」(6、10節)、あるいは罪を犯し(15節以下、21節以下)、「棄教する」(14節)可能性のある教会内の人々です。  「迷い出た羊」の譬えは、ルカと異なり、教会の中の小さな者の迷いであり、焦点は小さな者を捜し求める(=兄弟を得る)努力にあります。だから、続く今日の福音は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)とあるように、処分の手続き自体に関心があるのではなく、兄弟を得るための努力を評価されているのです。  兄弟を得るための配慮は同情や憐れみという人間的感情に動機づけられるのではなく、神から受けた愛や赦しの体験に基づきます(第二朗読につながります)。マタイはそれに(=個人的な体験〔第一朗読につながります〕)に教会論的次元を与えます。そのように、教会は兄弟を得るためにつまずいた小さな者(兄弟)に愛を与えるように、と。  こうして「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、┅┅」(15節)という個人的係争は教会秩序の欠如として、教会の問題と見なされます。なぜなら、教会は「隣人愛」(第二朗読 ローマ書13章9節)に生きているからです。                    2020年9月6日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第23主日 2020年9月6日 兄弟を得る マタイによる福音18章15-20節

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