9/13 年間第24主日ミサ 説教

2020/9/10

      私がしたように、あなたがした-年間第24主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音18章21-35節  無限に赦す(21-22節) 当時ユダヤ教のラビたちは、罪を犯した兄弟を、三回まで赦すように教えました。ペトロはそれを超えて「七回」も赦せばよいだろうと考えています(21節)。  この「七回赦す」とは、回数にとらわれて、それまでは赦すがその限度を超えたら怒ってもよいということではありません。この「七回赦す」とは、無限に赦すことを意味します。したがって、イエスはペトロの理解が誤っていることを見て取って、回数にとらわれた七回を否定し、「七回どころか七の七十倍まで」(22節)とされます。これは、回数を数える赦し方をやめて無限に赦すことが真の赦しであることを示しています。  第一場面 深く憐れんで赦す(23-27節)  ここに登場する「家来」たちは、州の大臣たちや属州の知事たち(税徴収の責任を持った人物)であり、王は、彼らが実施した政策についての決算処理を執り行います(23節)。  ところがそのうちの一人で裕福な属州の総督が、税の歳入のうち巨額な金銭を横領したことが発覚したというのです。紀元前4年にローマの属州であったユダヤ州、イドマヤ州、サマリア州から徴収された税の総額が六百タラントン、ガリラヤ州とペレア州からは二百タラントンであったと記されていることから見ても、一万タラントン(24節)がいかに膨大な額であるかが理解できます。一タラントンは六千ドラクメ、つまり六千デナリオンにあたります。一デナリオンは当時の労働者の日給ですから、一万タラントンは六千万日分の賃金になります。返還は不可能です。  そこで、主君はその男だけでなく妻も子どもも競売にかけて、奴隷市場に売り払ってしまおうとします(25節)。(妻を売却することはユダヤでは禁じられていましたので、ユダヤ人の聴衆には、この物語は異邦人に関するものであることが示唆されています)。しかし、奴隷の値段はおおよそ五百から一千デナリオンなので、家族を売り払っても負債額にはほど遠いことになります。  そうしたところ、この横領した者は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願します(26節)。それに答えて王は、「深く憐れんで」赦します。その悪者の負債をなしにしてしまったのです(27節)。  第二場面 奴隷仲間(28-30節)  第二場面では、その中心人物は役割を変更します。今や彼は債務者ではなくて債権者です。「仲間」(28節)の直訳は「奴隷仲間」です(マタイ24章49節)。「奴隷仲間」、すなわち広範囲にわたる王の行政上のもう一人別のメンバーが、小さな借金を滞納しています。その額「百デナリオン」(28節)は、当時の日雇い労働者の百日分に相当します。すると、この債務者は、26節で彼に相応する者が用いたのと同じ言葉を用いて懇願します(29節)。もちろん、一万タラントンという巨額な負債と百デナリオンという小額な負債の違いから言えば、こちらの例では支払うという約束を信頼してよいということになります。ところが、王に赦された横領者は、自分の権利に固執して、元来の契約不履行を我慢しないのです。彼は法的権利を訴えて、滞納者を債務者が入るべき牢獄に入れてしまいます(30節)。  第三場面 不届きな家来だ(31-35節) 行政上の他の役人たちが、あの横領者が債務者に対して行った厳しい処置に仰天して、その出来事を王に報告したところ(31節)、王は、赦された犯罪者を法廷に立たせるために召喚します。残忍な債務者は「不届きな家来だ」と呼びかけられています(32節)。主君は、この男の非人道的な行為に怒って再びその決断を翻し(ひるがえし)、返済が完済するまで、すなわち残りの人生の間中ずっと彼に肉体的苦痛を課するようにという指令を与えて、牢役人(直訳 拷問を掛ける者)の手に彼を引き渡すのです(34節)。  今日の福音のまとめ  譬話のポイントは、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)という主君の言葉です。この主君は神を表しています。つまり、私たちが人を赦す前に、まず神が私たちを先に愛し、赦してくださった、ということなのです。私たちの周りでも譬話と同じようなことが起こります。その時、この主君の言葉のように「私がしたように、あなたがした」場合に、初めて意味を持ってくるのです。  私たちは今「すべてのいのちを守るための月間」を迎えています。教皇が呼びかける「エコロジカルな回心」とは、地球を与えてくださった神の慈しみに感謝し、地球上のすべての「いのち」について考えることによって、私たちを和解の道へと導きます。  「春が来てタンポポが咲いたとします。綺麗だ、綺麗だと言われているうちはよいのですが、桜が咲き始めると人々はタンポポのことなどすっかり忘れてしまい、桜だ、桜だと皆桜に浮かれ始めます。そうするとタンポポは、桜に責任はなくても桜が気にくわなくなり、おもしろくないので、あんな桜は早くいなくなってしまえばいいと思うようになります。しかし称賛を奪われ、寂しさに追いやられたタンポポが、自分も桜と同じように神さまに赦され、生かされ、与えられた役割があり、また桜にも桜の役割があるのではないか、と大自然の営みの中に相手が見えて来た時、赦さなければいけない、赦さなければいけないという自分との闘いを越えて、自ら(みずから)赦せるようになるのではないか、と私は思うようになりました」(イエスの福音にたたずむ 井上洋治神父著 日本キリスト教団出版局 169頁)。                2020年9月13日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第24主日 2020年9月13日 私がしたように、あなたがした マタイによる福音18章21-35節 

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