9/20 年間第25主日ミサ 説教

2020/9/16

       年間第25主日A年-私の気前のよさをねたむのか                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音20章1-16節  第一部 労働者を雇うぶどう園の主人(1-7節)  パレスチナでは、ぶどうが熟すのが九月で、そのあとすぐ雨期が来ました。雨が降る前にぶどうを取り入れないと、ぶどうは腐ってしまいます。そこで一刻を争う収穫期には人手が必要で、一日一時間しか働けない人でも大歓迎されました。  広場(直訳 市場)に立っていた人々は、「何もしないで(直訳 仕事がないまま)立っていました」(3節・6節)。パレスチナでは市場(いちば)が労働市場(ろうどうしじょう)になっていて、働きたい人々は、朝、道具を持ってここに来て、仕事を待っていたので、夕方五時頃までもそこにいたのは、どんなに真剣に仕事を求めていたかを現しています。  この人々は日雇い労働者で、労働者の中でも一番低い階級に属し、生活はきわめて不安定でした。失業者が増え、家族もろとも路頭に迷うという人々が、大勢いた時代です。日雇い労働者は仕事にありつけない場合、いつも餓死する危険にさらされていました。  一日の賃金の一デナリオンは普通の労働者の賃金ですが、生活にはぎりぎりの額で、貯金する余裕などないから、一日でも仕事がなければ、パンを買うお金がなく、家にいる子どもたちは食べることができない状態にありました。  ぶどう園の主人は労働者を雇いに何回も市場に行きます。朝早く(六時頃)に行ったときは、一日一デナリオンの賃金を約束します(1-2節)。そして、九時頃、正午頃、三時頃に行きます(3-5節)。そして最後に夕方五時頃に行ったときは、労働者と短い会話を交わしてから、同じように雇い入れて、自分のぶどう園に送ります(6-7節)。  第二部 賃金の支払い(8-12節)  第二部は、夕方になっての賃金の支払いの場面です。ユダヤの労働時間は、朝六時から夕方六時までの十二時間でした。家族のその日の生活を支えるために、律法では、その日の賃金は日没前に支払うように規定されています(申命記24章15節)。  この場面では、最初(朝早く)に雇われた人々と最後に雇われた人々しか登場しません。「最後の人々」が一デナリオンずつもらう(9節)のを見た「最初の人々」は、自分たちはその十二倍も働いたのだから、もっとたくさんもらえると思っていたのに、やはり一デナリオンしかもらえなかったので、主人に対し「同じように扱われた」ことについて不平をもらします(10-11節)。  聖書をよく読むと、主人が一デナリオンの賃金を約束したのは、朝早くから働いた人々だけです(2節)。主人は、九時頃から働いた人々には「ふさわしい賃金を払ってやろう」(4節)、夕方五時頃から働いた人々には「ぶどう園に行きなさい」(7節)としか言っていません。主人は約束した賃金を支払っています。決して不当なことをしているわけではありません。しかし、皆に同じ額の賃金が支払われるというところに緊張感がでてきます。  第三部 主人の答え(12-16節)  第三部は、不平をもらす「最初の人々」に対する主人の答えです。三つの質問を重ねています。最初の二つは(13節c・15節a)、最初の人々に対して何の不当なことをしていないという言明で、三番目のものは「私の気前のよさをねたむのか」という問いです。  そして、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる(直訳 最後の人々が最初の人々になり、最初の人々が最後の人々になる)」(16節)という結びの警告が続きます。  今日の福音のまとめ  「最後の人々が最初の人々になり、最初の人々が最後の人々になる」という結びの警告は、おそらくマタイの教会の、朝早くから雇われた最初の人々はユダヤ人キリスト者、夕方五時頃に雇われた最後の人々は異邦人キリスト者を指し、古くからの教会員が新しい教会員の中に明示された霊的な賜物について不平を言ったのでしょう。「不平を言った」(11節)という語は、「ぶつぶつ不平を言う」だけでなく、「不平をぶつける相手が、ある役割に不適切な人物であることを表明する」という意味にも使われます。十二時間働いた人々と一時間しか働かなかった人々を同等に扱うような主人(神)は不適格だと考えています。  「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」(15節a)という主人(神)の言葉は、神の恵みは人間の行為によって左右されるものではないということです。つまり、神が与えられるのは賃金ではなくて贈り物であり、報酬ではなくて恵みなのです。「ねたむのか」(15節b)の直訳は「あなたの目が悪くあるのか」です。ねたみのために目が悪くなった人々は、神の恵みを見落とすことになります。  だから、譬話のポイントは、神は人間の作業量(業績)によって人間に恵みを与えることはないということです。朝早くから一日中働いた人々も夕方に来てわずかしか働かなかった人々も同じように扱うことで、イエスは、ファリサイ派的な業績主義、応報思想、費用対効果の信仰を克服することを教えます。  譬話は、私たちに労働条件を教えようとしているのではありません。イエスは「天の国は次のように譬えられる」と言っています(1節)。自分が朝早くから天の国のために一人前に働いたつもりでいると、譬話の意味がわからなくなって不平を言いだします。私たちは今「すべてのいのちを守るための月間」を迎えています。地球誕生から始まる大自然の営みの中に創造主(神)の慈しみを見るとき、自分の奉仕はほんの夕方五時頃から働き出したにすぎないと謙虚に認めることができます。それなのに神は自分に一人前の贈り物(恵み)をくださった。とすると、なんと神は気前のよい方なのでしょう、と認めることになるはずです。                    2020年9月20日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第25主日 2020年9月20日 私の気前のよさをねたむのか マタイによる福音20章1-16節

お知らせ一覧へ戻る