9/27 年間第26主日ミサ 説教

2020/9/24

           後で考え直して-年間第26主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音21章28-32節  譬えを述べる第一段落(28-31節a)  父親に対する二人の息子の返事と行動の差異が「二人の息子の譬え」の中心をなしていますが、二人の順序は写本によって一致していません。大別すると、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(28節)という要求を聞いて、 ① 29節で最初の息子は拒否の返事をし、後で考え直して仕事に行き、30節の次の息子は 逆に返事は良いが仕事をしませんでした、という順序のもの(「聖書と典礼」の訳←新共同訳、フランシスコ会聖書訳)。 ② 反対に29節でまず返事だけは仕事を引き受けると言いながら実行しなかった息子が登 場し、次の息子は断りを言いましたが実行した、という順序の写本群(ヴァティカン写本、シリア語訳、日本聖書協会訳など。この場合ですと、弟は、もっと明白に、イエスを信じた徴税人や娼婦たちを指すことになります)。  論理的には、最初に頼んだ息子が仕事をしなかったので、父親は弟の所へ行ったとする①のほうが、筋(すじ)はすっきりします。しかしそのことは逆に、読み方②がのちに構成されたものであることを示唆するのであって、兄が仕事をしたのにさらに弟に頼む①はおかしいという考え方からそれを修正するために発生した読み方が②であると思われます。  さらに①から②への変更には、初代教会の教義的関心が作用しています。教会において、譬えの兄弟はユダヤ人と異邦人を表しました。福音はまずユダヤ人に与えられましたが、彼らは結局それを拒否してしまいました。そして父親(神)の望みどおりに(31節a)行動したのは、あとから父親(神)の言葉を聞いた異邦人でした、という救済史的図式で譬えを読む解釈が主流を占め、こうして譬えにおける二人の順序が①から②へと入れ換わったのです。  譬えに基づく教えを述べる第二段落(31b-32節)  さて、譬えはマタイによって前述した原意とは、異なる解釈が施されています。  「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心(みこころ)を拒んだ」(ルカ7章29-30節)。マタイのほうでは、「民衆と徴税人」の代わりに「徴税人と娼婦たち」となっています。徴税人や娼婦たちは、まさに「父親(神)の望みどおりに」(31節a)しないということで、祭司長や長老たちから罪人(つみびと)だと軽蔑(けいべつ)されていました。  「神の国」に先に入るのは、律法を守る(つまり神の望みを果たしている)と自負していた「あなたたち」(祭司長や長老たち)ではなく、彼らが軽蔑していた徴税人や娼婦たちのほうだ、とイエスは言います(31節b)。なぜなら、義の道を示した洗礼者ヨハネを信じたのは、祭司長や長老たちではなく、徴税人や娼婦たちだったからです(32節a)。神が望んでいるのは(31節a)、自力で義を行う(=律法を守る)ことではなく、義を示した方(かた)を「信じる」ことです。この信仰が義の道へと人を招き、それを行う力を与えます。しかし、自力に頼る祭司長や長老たちは、洗礼者ヨハネを信じようとせず、しかも信じた徴税人や娼婦たちを見ても、「後で考え直す」ことなく、信じようとしなかったのです(32節b)。  今日の福音のまとめ  今日の福音は、イエスの「権威についての問答」(マタイ21章23節以下)の後に置かれています。祭司長や長老たちは「最高法院」(サンヘドリン)のメンバーであり、ユダヤ教の指導者たちでした。彼らは、権威の源泉を律法の言葉に置いています。しかし、イエスは権威の源泉を律法の言葉には置いていません。イエスは何を通して権威を示しているのか、それが今日の福音のテーマになっています。  イエスは権威がどこから来るのか、直接には答えようとはしません。むしろ、洗礼者ヨハネ=イエスに出会った者が「考え直して」義の道を信じたことに権威が示されていると考えます。真の権威は、それに応じた行為を呼び起こすからです。  29節の「考え直して」(メタメロマイ)は、マタイ27章3節では「イエスを裏切ったユダは後悔し」では「後悔する」と訳されています。このようなことからも分かるように、この語は「良心に呵責(かしゃく)を感じ、後悔する」という意味ですが、神との関係が意識されているわけではありません。これに対して、「悔い改める」(メタノエオー)は「神の思い(父親の望み 31節a)を知って生き方そのものを変える」ことを意味します。今日の福音の「考え直して」は「メタノエオー」の意味として捉えたほうが良いでしょう。  徴税人や娼婦たちは「メタノエオー」をして、自分の罪を認め、ヨハネから洗礼を受けました。ここに、イエスの権威が示されています。ところがこうした出来事でさえ、宗教の指導者たちに印象を与えることはなかったのです。なぜなら、それによって、彼らが「考え直して」、洗礼者ヨハネ=イエスが語っていることを信じるようにならなかったからです。  マタイは「あなたたちは信じようとしなかった」と32節で二度までも不信仰を指摘します。自らを「徴税人や娼婦たち」の上に置いて、神の思い(父親の望み)を見ようとしない人々に対するこの戒めと、イエスの言葉と行いの中に神の思い(父親の望み)を見ることの必要性を、元徴税人のマタイは痛感していたのではないでしょうか。  確かに「二人の息子の譬え」は、ユダヤ教指導者たちに適用されていますが、おそらくマタイは、もっと広い範囲の適用を意図していたことでしょう。なぜなら、キリスト者でも、その周囲の世界で神が行っておられる慈愛を見ていないことがありうるからです。                    2020年9月27日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第26主日 2020年9月27日 後で考え直して マタイによる福音21章28-32節

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