10/4 年間第27主日ミサ 説教

2020/10/2

        ふさわしい実を結ぶ教会―年間第27主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音21章33-43節  「ぶどう園と農夫の譬話」の本体(33-41節)  預言者はイスラエルの民を「ぶどう園」に譬えました。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」(イザヤ書5章7節)。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶね(さかぶね)を掘り、良いぶどう酒が実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」(イザヤ書5章2節)。  「垣」(33節)はいばらのしげみで、ぶどう畑を荒らすいのししや、ぶどうを盗む泥棒を防ぐためのものでした。酒ぶね(搾り場 33節)はどのぶどう畑にもあり、岩を掘るか、れんがを重ねてつくった細長い二つの桶状のもので、一方の高い酒ぶねと他方の低い酒ぶねとをみぞでつないでいました。ぶどうを高いほうの酒ぶねで圧搾(あっさく)すると、ぶどう汁が下の酒ぶねに流れ込む仕かけになっていました。「塔」(やぐら 33節)はぶどうを熟する頃に、盗人の見張りをするためと、ぶどう園で働く人たちが宿泊するためのものでした。  当時ユダヤでは社会階層の分化が進み、農地のかなりの部分は大地主たちの所有となりつつありました。彼らはしばしば外国人であってユダヤには居住せず、適当な時期に手下を送っては小作人から収穫を搾取しました。ユダヤの法は、「地主は土地を、小作人は種と労働を出し合う。収穫は等分する」と述べていますが、地主が外国人の場合、ユダヤの法以上の厳しい取り立てがなされていました。苛酷(かこく)な地主に対して農民は不満を持ち、反抗的でした。  譬話の主要な構成要素が何を意味するか、誰にでもすぐ分かるようになっています。ぶどう園の主人=神、ぶどう園=イスラエル、農夫たち=イスラエルの指導者たち(祭司長や民の長老たち)、主人が送り込む僕たち=預言者、主人の息子=イエス、を表しています。  この譬話は、マルコ12章1-12節にもルカ20章9-19節にも記されています。ですから三つの記事を調べてみますと、いろいろと興味深い点が発見できます。  マタイでは、「もう一つの譬えを聞きなさい」というイエスの呼びかけで始まっています(33節)。これは先週の福音「二人の息子の譬話」(21章28-32節)と同じイスラエルの指導者たち(祭司長や民の長老たち)に向かって語られたことを示しています。  ぶどう園の所有者は、マルコとルカでは「ある人」ですが、マタイでは「主人」と呼ばれています(33節)。これによってマタイは譬話の主人公が神であることを一層分かりやすくします。  派遣された僕たちの数は、マルコとルカでは一人ずつ三回送りますが、マタイではグループで二回送り出します(34-36節)。マタイは捕囚以前と捕囚以後の預言者を表しており、捕囚という民族の試練によってもイスラエルの指導者たちの態度が変わらず、彼らは一貫して神に反抗的であったことを示します。  マルコは「まだ一人、愛する息子がいた」(12章6節)と断って息子がイエス自身であることを明確にしますが、マタイはただ「主人は自分の息子を送った」(37節)というだけです。すなわちマタイでは、譬話の強調点はキリスト論的ではなくなり(勿論、キリストが神の子であることは前提としていますが)、むしろこの譬話のうちに、イスラエルの指導者たちの福音拒絶を読み取っているのです。マタイが農夫の拒絶の重大さを他の福音書よりも前面に出すのはそのためです。  息子がぶどう園の外で殺されるのは(39節)、イエスが町の外に連れ出され十字架につけられた(ヨハネ19章20章、ヘブライ書13章12節)という歴史的順序の影響を受けたものです。  「ぶどう園と農夫の譬話」の意味(42-43節)  42節は詩編118・22-23からの引用です。「家を建てる者」は「農夫たち」であり、神の宮を建てるべきイスラエルの指導者たちです。「隅の親石」は、二つの壁の接合点の土台石であるから、建物の中で最も重要な石です。「捨てた」は、「審判の結果捨てる」という意味で、イエスへの裁判と処刑を表しています。イエスは捨てられますが、その十字架と復活によって、新しいイスラエル(教会)の土台となります。これはまさしく驚くべき神の業です。こうして、神の国は新しいイスラエル(教会)のものとなるのです(43節)。  今日の福音のまとめ  イエスが語るこの譬話本体(33-41節)の本来の意味は、41節の「ほかの農夫たちに貸すに違いない」という答えにあります。イエスはこの句によって、イスラエルの指導者たちが軽蔑する徴税人や娼婦たちのもとへ行く(マタイ21章31―32節)理由を明らかにします。イエスにとってこの譬話は神の国を宣教するイエスの姿勢を明らかにしています。  しかし、教会の解釈にも二つの段階があります。なぜなら、すでに触れた譬話本体の本来の意味と、42-43節の譬話の意味とでは、解釈にずれがあるからです。43節での「ぶどう園」はイスラエルではなく、「神の国」に譬えられており、教会(=新しいイスラエル)の異邦人宣教を正当化する譬えとされています。  「民族」(43節 エスノス)は、一民族、一国家を言うのではなく、イエスを土台とする新しいイスラエル(教会)です(42節)。これは、ユダヤ人も異邦人も差別なく受け入れ合い、赦し合う、イエスによって神の慈しみに感謝する「教会」です。私たちは、9月1日~今日10月4日まで「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしました。「エコロジカルな回心」→地球を与えてくださった神の慈しみに感謝し、すべての「いのち」について考えることによって、受け入れ合い、赦し合う、ふさわしい実を結ぶ「教会」となりますように。                    2020年10月4日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第27主日 2020年10月4日 ふさわしい実を結ぶ教会 マタイによる福音21章33-43節

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