10/11 年間第28主日ミサ 説教

2020/10/9

         婚礼の礼服を着る―年間第28主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音22章1-14節  今日の譬話は、先週の譬話の続きに登場するので、「イエスは、また譬え(複数)を用いて語られた」という導入句(1節)で始まります。これは先々週の福音「二人の息子の譬話」(21章28-32節)や先週の福音「ぶどう園の農夫の譬話」(33-43節)と同じイスラエルの指導者たち(祭司長や民の長老たち)に向かって語られたことを示しています。  今日の福音は「披露宴の譬話」とか「王子の婚宴の譬話」と言われている譬話ですが、正確には、前半部(2-10節)と後半部(11-14節)は、元(もと)は二つの違った譬話だったと考えられています。  前半部の譬話(2-10節)  「二人の息子の譬話」では洗礼者ヨハネが登場し、続く「ぶどう園の農夫の譬話」では「隅の親石」となったイエスが登場しました。これらの譬話に続く今日の福音では、イエスの再臨の日を「王子の婚宴」として描き、イエスの復活と再臨の間を生きる「教会」の姿が描かれています。  この前半部には、「ぶどう園の農夫の譬話」同様、イスラエルの指導者たち(祭司長や長老たち)の罪と罰が比喩的に表されています。「王」は神、「王子」はイエス、「婚宴」は天の国(=神の国)、「婚宴に招いておいた人々」とはイスラエルの指導者たち(祭司長や長老たち)を表しています。  前半部の譬話は、ルカ14章15-24節に並行箇所があります。マタイではこの「婚宴」を催すのは「王」ですが、ルカでは「ある人」です。王は招待客へ家来たちを二度送ります(ルカでは一度だけです)が、最初の家来たち(3節)は明らかに旧約の預言者たちを指します。最初の招待(未来的)が拒絶されますと、すぐまた別の家来たちを遣わして、「食事の用意が整いました。┅┅すっかり用意ができています」と言わせます(4節)。  二度目の家来たちは「婚宴」がすでに万端整ったこと(現在形)を告げますが、無視されるばかりでなく(5節)、ひどいあしらいを受けます(6節)。これはイエスの復活後、キリスト教の宣教者がユダヤ教側から受けた迫害を表しています。  「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った(過去形)」(7節)。ここには紀元後70年のローマ軍によるエルサレム陥落と神殿炎上が示唆されています。  その後、王は再び「婚宴」に人々を招きます。「招いておいた人々は、ふさわしくなかった。┅┅見かけた者は誰でも┅┅連れて来なさい」(8-9節)。「ふさわしくなかった人々」(8節)とは、予め(あらかじめ)招待されたイスラエルの指導者たち(祭司長や長老たち)を指します。彼らの拒絶によって救いへの優先権は奪われ、「婚宴」への招待は異邦人や罪人に移行します。家来たちは、命じられたとおりに「善人も悪人も」皆集めて来たので「婚宴」の広間は客でいっぱいになります(10節)。ここにはマタイの教会観が見られます(13章30節、48節)。マタイによれば教会は善人と悪人の両方を含む混合体なのです。  後半部の譬話(11-14節)  後半部は王が「婚宴」に臨む大事な場面となります。王が客を見ようと入って来ると、一人だけ礼服を着ていない者がいます(11節)。これは「王」に、また「婚宴」に対する侮辱行為になります。「礼服」とは、この場合各自が持参するものでなく、王宮で王から与えられる着物です。「婚宴」の直前に町の大通りで連れて来られた客であるから、自分の物を持って来る余裕はなかったでしょう。旧約の時代から、客を歓待する意味で、あるいは宮廷に出る者に、王から着物が与えられる習慣がありました(創世記41章14節、45章22節、士師記14章12節、19節、列王記下5章22節、10章22節、エステル記2章3節、6章7-8節、8章15節)この者は王が与えた礼服を拒絶して王の前に出て、その威光を傷つけたのです。この礼服は、信仰によって与えられるキリストの義の業です。  12節の「この者は黙っていると」は、王の質問によって沈黙させられた状態、故意に拒絶した結果黙らざるを得なかったことを表します。礼服を拒絶することによって、彼自身、「婚宴」(=神の国)にあずかる客から自分を除外してしまいました。待ち受けているのは「外の暗闇」です(13節)。  今日の福音のまとめ  11-14節の後半部の譬話は、「婚礼の礼服」に焦点が当てられています。つまり、マタイの教会には、善人も悪人も混じっているので(それは13章の毒麦の譬話や、良い魚と悪い魚を選り分ける譬話の中で言われていることですが)、マタイは「婚礼の礼服を着る」ことを忘れないように警告しているのです。この「婚礼の礼服を着る」とは、すでに山上の説教の中で描写している、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」(5章20節)のことで、義の業の実行を指しています。しかし、それは救いを獲得する(=神の国に入る)条件なのではなく、すでに与えられた救い(神の国)が求める義の業の実行です。  教会には、「善人も悪人も」含まれています。「悪人」は排除されませんが、「婚礼の礼服」を着ていない者は外の闇に投げ出されます(13節)。死んで復活したイエスの再臨を待ち望む教会は、イエスが与えた救い(神の国)にふさわしく生きるように求められています。  「婚礼の礼服」は、各自が持参するものでなく、「婚宴」で王から与えられる着物です。ですから、ここでの「婚礼の礼服を着る」とは、救い(婚宴=神の国)に招かれたことへの「感謝」とも言えます。この「感謝」が義の業の実行を行わせる力の源となるのです。                   2020年10月11日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第28主日 2020年10月11日 婚礼の礼服を着る マタイによる福音22章1-14節

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