10/18 年間第29主日ミサ 説教

2020/10/19

           神のものは神に―年間第29主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音22章15-21節  第一段落(15-19節)  「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「王子の婚宴」の三つの譬話(21章28節-22章14節)は、「祭司長や長老たち」に向けられました。この場合の「祭司長」というのは、いわゆる祭司であっても、いわば典礼のチーフになるような人々です。ですから、サドカイ派の人々を指しています。そして「長老たち」とは、信徒である実力者であって、その人々は例えば、神殿の警備の責任者とか、神殿の財務管理、そうしたことをやっていました。つまり、こうした人々が、最高法院(サンヘドリン イスラエルの最高意志決定機関)の執行部として大幅な権限を持っていました。  今日の福音は、イエスが三番目の譬話「王子の婚宴」を語り終えた後に、ファリサイ派の人々が取った反応を述べています。イエスの論争の相手は祭司長や長老たちに代わってファリサイ派の人々になります。イエスの時代、エルサレム、特に神殿や最高法院を中心としたひとかたまりの支配階級が見られます。大祭司とサドカイ派(祭司長たち)、長老と呼ばれる大金持ちのグループです。そして、後(のち)に第二のかたまり、地域に根を張った手工業や小市民衆、そこを地盤とするファリサイ派の律法学者たちというもう少し民衆に密着した指導層が最高法院に加わっていきます。そして、紀元後70年のエルサレム陥落と神殿炎上以後中心的な力を握り初代教会と激しく対立するのはこのファリサイ派の人々です。  ローマ帝国が徴収していた税金には三種類ありました。第一は土地所有税で、穀物の十分の一、酒とぶどう酒の五分の一を、一部は現物で、一部は現金で納めることになっていました。また、所有税があり、収入の一パーセントを納めました。さらに、人頭税があって、14歳から65歳までの男子と、12歳から65歳までの女子が納めるもので、その額は一デナリオン、これは当時の労働者一日分の賃金でした。今日の福音で問題となっている税は、この人頭税のことです。  ファリサイ派の人々は、イエスに何か言わせて、その言葉じりをとらえて訴えようとしました(15節)。今までいつも、結果的にはイエスに糾弾されて終わっている彼らは、それをかわす意味でも、今度は「弟子たち」を送り、さらに手の込んだことには、平生(へいぜい)は意見・立場を異にする「ヘロデ派の人々」と結託(けったく)しています(16節)。当時のユダヤでは、納税問題は、社会的政治的問題であるとともに宗教的問題でもありました。ファリサイ派の人々は、神の選民イスラエルから税を取る異邦人は神の権限を侵す(おかす)不遜(ふそん)なやからと考え、ローマ総督に対してであれ領主ヘロデに対してであれ、税を納めることに原則として反対していました。この考え方を過激的に推し進めた人々が「熱心党」です。これとは、反対に、ヘロデ家を何とか再興させて、先代ヘロデ大王時代に戻そうと願い、その方便としてローマ帝国に積極的に協力し、納税もすすめたのが、ヘロデ派と言われた人々でした。  このように立場を異にする二派の人々をイエスのところに送ったのは、イエスを窮地(きゅうち)に追い込むためであったことは明らかです。納税を是認(ぜにん)すれば、ヘロデ派の人々に賛成したことになり、ファリサイ派や熱心党の人々や一般人からの人気を失い、あるいはその怒りに触れます。納税を否認すれば、ヘロデ派をはじめ、サドカイ派、ローマ総督、領主ヘロデなどから反逆者とされます。どちらかにころんでも陥れられる(おとしいれられる)ことになります。  第二段落(20-21節  「これは、誰の肖像と銘か」(19節)と問われた派遣された者たちが「皇帝のものです」(20節)と答えると、イエスは「皇帝のものは皇帝に」(21節)と教えます。これは納税問題への回答ですが、同時に神殿からの退去命令とも言えます(神殿内にローマの銀貨を持ち込むことは十戒の第一戒と第二戒を破っていることになります)。このように、普段、皇帝の肖像と銘の入った銀貨を持ち歩いている彼らは、「皇帝のもの」に同化しています。 今日の福音のまとめ  イエスは、ファリサイ派から派遣された者たちに、「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」と語りかけます(18-19節)。ローマのデナリオン銀貨には月桂樹の冠をかむったローマ皇帝の肖像が刻まれており、その周りに「神の子、カエサル・ティベリウス」という銘がありました。神の像を刻むことは十戒の第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない」に触れますし、異教徒のローマ皇帝を神と認めることは十戒の第一戒「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」を破っていることになります。  「納めるお金を見せなさい」(19節)という言葉から分かりますが、イエス自身はデナリオン銀貨を持っていません。質問した者たちが持っています。このように、イエスを陥れようとする者たちは、ローマの銀貨を日常生活で使うことには何の疑問も抱いていません。彼ら自身すっぽりと皇帝の体制(皇帝のもの)の中で生きています。にもかかわらず、いざ納税ということになったときだけ、神の掟に反するとか、愛国心を持ち出してくるのは「偽善者」(18節)ではないかと、イエスは言っているのです。  イエスが言いたいことは、「税金を納めるとか納めるなとか、それは自分で考えてほしい。貨幣自体は皇帝に返していい。しかし、それに関わっている自分自身は神のものであることは忘れてはいけない。『神のものは神に』はあなた自身のことです。それを神に帰しなさいということなのです。                   2020年10月18日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第29主日 2020年10月18日 神のものは神に マタイによる福音22章15-21節

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