10/25 年間第30主日ミサ 説教

2020/10/26

           二つの掟―年間第30主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音22章34-40節  律法の中で最も重要な掟(34-36節)  並行箇所のマルコ12章28―34節と比較すると、次のような相違があります。 ① マルコでは、イエスとサドカイ派の議論を聞いていたのは「一人の律法学者」ですが、マタイでは「ファリサイ派の人々」です。 ② マルコでは、サドカイ派の復活についての問いに「イエスが立派にお答えになった」のを見て、律法学者が尋ねます。それに対して34節では、サドカイ派をイエスが「言い込められた」と聞いて、ファリサイ派は「一緒に集まった」と述べられています。 ③ 35節の「試そうとして」と36節の「先生」という呼びかけはマルコにはありません。  これらの相違に注目すると、マタイの主張がはっきり見て取れます。マタイが描くファリサイ派はイエスの敵役を一身に背負っています。  サドカイ派(34節)はイエスの時代のユダヤ教の三大党派の一つです。この派には祭司階級や地主階級が多く、その教説は保守的であり、刷新を嫌いました。サドカイ派にとっては、モーセ五書のみが唯一の権威であり(マルコ12章26節)、復活をも否定していました(マルコ12章18節、使徒言行録23章8節)。対して、ファリサイ派(34節)はモーセ五書のほかに口伝律法を重視し、復活をも肯定していました。  このように、教義や律法理解の上では対立するファリサイ派とサドカイ派は、イエスに敵対することでは仲間となっています(16章1-12節)。イエスがサドカイ派を「言い込められた」と聞いたファリサイ派は、イエスを「試そうとして」尋ねます(34-35節)。「試す」という語は、必ずしも「悪意をもって試す」という意味ではありません。しかし、マルコとの相違を考慮すると、ここでの「試す」には悪意が込められています。しかも、彼らは悪意を隠して、イエスを「先生」(36節)と呼び、教えを乞う姿を装います。このように、マタイでは、ファリサイ派の敵対感情が強調され、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」(36節)という問いがイエスを陥れる罠(わな)とされていることが分かります。  ラビたちの計算によれば、律法には613の掟(248〔人体の骨の数〕の命令「せねばならない」と365〔一年の日数〕の禁止「してはならない」)があるとされていましたが、この数多くの掟のうち、軽重の別、さらにそれぞれの大小の別に分けられ、どれが最も重要か、しばしば論じられていました。36節の問いが「どの掟が最も重要か」という意味であれば、最も重要な掟をイエスに述べさせることによって、律法は神の意思の表現であるから、それを人間が優劣をつけることはできないというラビたちもいたので、613の掟すべてを守ろうとするラビたちの努力を無意味なものと批判させることにあるのかも知れません。  律法全体と預言者(37-40節)  「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(37節)は申命記6章5節からの引用であり、この句は同4節の「聞け」(ヘブライ語シェマ)で始まっているので、ユダヤ人はこの句を「シェマ」と呼んでいました。ユダヤ教の会堂では礼拝のたびごとにシェマを告白し、人々は日に二回それを口に唱えました。ユダヤ人の子どもはこの句を最初に暗記させられました。ファリサイ派の人々は申命記6章8-9節にしたがって、シェマを門の右柱に記し、またこれを記した小さな羊皮紙(ようひし)を小箱に納めて、ひもで額と左腕に結びつけました(いわゆる経札です)。シェマは、神に対する全面的全人格的愛を教えています。動機も、感情も、思想も、全精神、全存在、全生涯をかけて神を愛することです。  ところがイエスは、「最も重要な掟」(38節)を尋ねている質問にただ一つだけを挙げることを拒否されます。すなわち、「神を愛する」という第一の掟に対して、彼は第一の掟と「同じように」重要な(39節)、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節から引用)を付け加えます。「第二も、これと同じように重要である」(39節)の直訳は、「第二はこれに似ている」です。「似ている」は並行箇所のマルコ12章31節にはありません。マタイは、これを付け加えることによって、隣人愛は神への愛と同価値であり、決して劣ってはいないことを明確にしています。  さらにマタイは、マルコには欠けている「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(40節)を付け加えます。「律法全体と預言者」は旧約聖書を表す表現です。「基づいている」の直訳は、「掛かっている」です。旧約聖書が教えるすべての掟はこの二つの同等の愛に「掛かっています」。他のすべての掟を守るとき、この愛の心が欠いているなら、無意味なものとなります。愛がすべての掟の根拠となるのです。  今日の福音のまとめ  イエスは律法の専門家の求めに応じて、神への愛を「最も重要な第一の掟」とした後で(37-38節)、「第二も、これと同じように重要である」と述べて、隣人愛を挙げています(39節)。ここでの「第二」は「重要さの点で二番目」の意味ではなく、ただ順番を挙げているにすぎません。とすれば、神への愛と隣人愛とは重要さにおいて同列であり、両者は表裏一体と見られていることになります。本当に神を愛することは隣人を愛することです。そして本当に隣人を愛することは、神を愛することなのです(Ⅰヨハネの手紙4章20-21節)。しかも、神への愛は神から受けた愛への返答と見られているでしょうから、「神からの愛」が二つの掟の根底にあります。人間には二種類あります。隣人と自分です。人間はどうしても隣人愛よりも自分への愛(の方向)に傾きます。ですから、すべての人を愛するという「神からの愛」に立ち帰ることが二つの掟の始まりとなるのです                   2020年10月25日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第30主日 2020年10月25日 二つの掟 マタイによる福音22章34-40節

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