11/15 年間第33主日ミサ 説教

2020/11/11

  主人にとっては信頼できる僕・主人を信頼する僕―年間第33主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音25章14-30節  第一段落 僕に財産を託す主人(14-15節)  ギリシア語原文 14節 なぜならように ある人が 旅に出かける者が    呼んだ 自分の 僕たちを そして 渡した 彼らに 彼の財産を、 15節 そして ある者に 与えた 五 タラントンを、    ある者に 二を、ある者に 一を、各人に 自分の力に従って、    そして 旅に出かけた。すぐに  14-15節にはキアズモ(aとa´,bとb´の対応関係)が見られます。  a  旅に出かける者が    b 渡した(パラディドーミ)    b´与えた(ディドーミ)  a´ 旅に出かけた  パラディドーミはディドーミの強意形であり、根本的には「あるものを他の者の処理にゆだねる」を意味します。ここではキアズモによって、財産を渡す主人の僕に対する信頼の大きさを強調しています。  今日の福音の「タラントンの譬話」は、ルカ19章11-27節にも記されていますが、内容が少し違っています。主人は僕に財産を「渡し」、旅に出ます。まずルカでは、主人は僕にお金を渡し、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じます(ルカ19章13節)。マタイでは、主人が留守の間、その財産をどのように運用するべきかという指示は何も与えずに財産を渡すほどに、この主人は僕を信頼しています。  マタイでは、三人の僕に「それぞれの力に応じて」大金が渡されます。一タラントンですらも、当時の約16年分の賃金ですから、五タラントンを任された僕は一生分の収入以上の額を与えられたことになります。ルカでは、十人の僕一人ひとりが一タラントンの六十分の一(100日分の賃金)に相当する一ムナを受けますが、その金額のほうが現実的です。マタイの場合、それほどの大金を裁量に任せて旅に出るほどに主人は僕を信頼しています。  第二段落 財産を託された僕の行動(16-18節)  16-17節の「もうけた」二人の僕と18節の「隠した」僕が対比されています。18節冒頭の「しかし」がその対比を示しています。16節の「それで商売をして」は「タラントンで商売をして」を意味しますから、もうけた僕は、「主人から渡されたタラントン」を用いて働きます。しかし、出て行って穴を掘った僕は、「主人の金」を隠します。預けられた財産は「あなた(主人)のお金」(25節)と考える僕は、主人の財産を守るために地に隠すことを最善の方法と考えます。 お金を土の中に埋めるというのは、当時としてしては最も安全な保管の仕方で、律法の規定でも、万一盗まれたとしても処罰の対象にはなりませんでした(しかし、ルカの記すように「布に包んでしまっておく」だけでは罰を受けました)。この三番目の僕は、考えられる限りの安全手段をとったのに主人からは「怠け者の悪い僕だ」と断罪されます(26節)。  第三段落 かなり日がたってから、主人が帰って来る(19-30節)  20-21節には五タラントンを受け取った者が、22-23節には二タラントンを受け取った者が登場します。二人は、金額の差がありますが、主人に全く同じ言葉で自分の働きを報告します。20・22節には、第一段落と第二段落のキーワードである「渡した(預かった)」と「もうけた」が含まれています。主人が信頼して「渡した」財産は、それを用いて「もうけるべきもの」と二人は考え、そのように振る舞いました。この二人に対するねぎらいの言葉も同じです(21・23節)。二人の僕と主人の会話を、全く同じ表現で繰り返すことによって、もうけの金額の差は主人には問題ではないことが示されます。  24節冒頭の「ところで」はこの二人の僕と、「恐ろしくなり、出かけて行って、┅┅隠した」僕とを対比させます。この僕は主人が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めるかた」と言います。26節で主人はその見方を認めていますが、主人の言葉には、「厳しいかた」は含まれていません。蒔くこと(渡した財産の運用方法)まで僕に任せる主人の信頼を見誤った僕は、主人を「厳しい」と思い、「恐れます」。  今日の福音のまとめ  「忠実な良い僕だ」(21・23節)の「忠実な」はギリシア語のピストスです。この形容詞は、「信頼できる・忠実な」の意味にも、「信頼する・信じる」の意味にもなります。預けられたタラントンと同額をもうけた二人の僕は、土にタラントンを埋めた僕と異なり、「恐ろしくなって、出かけて行く」ことはありませんでした(25節)。その意味では、主人にとっては信頼できる僕」であり、主人を恐れず「信頼する僕」です。 「恐れて」地に隠したことを告白する僕を、主人は「怠け者の悪い僕だ」と呼びます(26節)。「怠ける(なまける)」という語の元々の意味は、「躊躇(ちゅうちょ)する・怯む(ひるむ)」です。彼は他の二人のように主人から信頼される者となれませんでした。それは、主人を恐れて、信頼しなかったからです。 教会は「主人の喜び」(21・23節)と表現される宴会(天の国)に入るために働くようと勧めます。私たちが任された大きな財産(神の恵み)を見て、怯む(ひるむ)ことなく働くことができるのは、私たちを信頼した主人(=イエス)を信頼するときだけなのです。                   2020年11月15日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第33主日 2020年11月15日 主人にとっては信頼できる僕・主人を信頼する僕 マタイによる福

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