11/22 祭日・王であるキリスト ミサ説教

2020/11/20

       最も小さな者の一人に―王であるキリストA年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音25章31-46節  今日の福音には、二つの譬話が組み合わされています。 イ.人の子によるすべての民族の選別(32-33節) ロ.王による裁き(34-46節) の二つです。そしてこの二つには、裁きの選別という基調を別にすれば、用語的には「右・左」(33・34・41節)のほかに共通する語はなく、裁きの主体も、イでは「人の子」ですが、ロでは「王」に変わっています。イは、狭義の譬話というより直喩(ちょくゆ 直接的な譬話)の一つで、他方、ロは終末のイメージを背景にして終末へと生きる教会の取るべき姿勢が語られています。したがってこれらの二つは由来の異なる伝承と考えられています。  「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」(マタイ16章27節)。  「┅┅人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、私に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ19章28節)。  「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(マルコ8章38節)。  31節はマタイの編集句です。この節は、マタイ16章27節、19章28節とほぼ同じであり、それを繰り返しています。そして16章27節は並行箇所のマルコ8章38節を資料としていますが、マタイは主文に人の子の到来を掲げ、これをマルコよりも強めています。マタイ16章27節における人の子の到来は「それぞれの行いに応じて報いる」ためですが、到来と報いのモティーフの組み合わせもマタイ的工夫であり、今日の福音においても「それぞれの行いに応じての報い」が34節以下に展開します。  32節の終末の裁きに召集される「すべての国の民」は、マタイ26章19節において復活のキリストが弟子たちに与える宣教命令の「すべての民」を視野に入れた句です。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(マタイ26章19節)。終末までに福音は、「あらゆる民へ┅┅全世界に宣べ伝えられる」(マタイ24章14節)のですから、この宣教命令が完了してのち始めて終末となり審判が開始されます。したがって裁かれるのは、すでに福音を聞いた者たちです。  パレスチナにおいて羊と山羊(やぎ)は、日中は一緒に放牧していました。夜になると、山羊は寒さを嫌うので別に分けて洞くつや小屋に入れ、羊は新鮮な空気を必要とするので戸外の囲いに入れました。その習慣が33節の素材となっています。  今日の福音のまとめ  1.今日の福音は、「最も小さい者の一人」に対する「愛の奉仕」をすすめています。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37節)。愛の奉仕をした人たちは、無償の行為をしたのであって、「最も小さい者の一人」が友人であるかどうか―実は「最も小さい者の一人」はキリストであるかどうか―は、動機になっていません。最後の審判のとき、正しい者とされた人たちは、人にほめてもらうために、また神から恵みをもらうために、愛の奉仕をしたのではありません。愛の奉仕は、人に対しても、神に対しても、報い(お返し)を求めません。  2.今日の福音の「最も小さい人の一人」とは、「貧しい人」ではなく、「福音宣教者」のことです。当時の宣教者たちは、投獄(とうごく)され、飢え乾き、みすぼらしい身なりをし、住むところもない生活を続け、福音を伝えました。マタイは、そのような人たちの中に「最も小さい者の一人」(=キリスト)を見ました。マザーテレサは、インドのカルカッタのスラム街で行き倒れになっている人たちの中に「最も小さい者の一人」(=キリスト)を見ました。あなたにとって「最も小さい者の一人」とは誰ですか?  3.今日の福音は、最後の審判についての話です。「呪われた者ども」(41節)とキリストは言います。「私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」(42-43節)。  それに対して人々は、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」(44節)と弁解します。しかし、キリストは、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(45節)と言います。つまり、最後の審判の基準は、実際にそこにいる一人ひとりの人間が周りの人々に何をしたかということなのです。  44節では、食べさせ、飲ませ、着せるという「愛の奉仕」をまとめて「お世話をする」と表現しています。原文のギリシア語ではここに「仕える」という語が用いられています。これと同じ語が、「仕えるために、また、多くの身代金として自分の命をささげるために来た」(マタイ20章28節)にも使われています。栄光の座に着く「人の子」(31節)は、最も小さな者の一人となった王です。そのキリストとの交わりが、私たちを愛の奉仕を行う者へと変える力となります。イエスは、最後の晩餐のとき、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。┅┅互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34-35節)と言います。つまり、キリスト者であるしるしは、キリストのように小さな者の一人となって互いに愛し合うことなのです。                   2020年11月22日(日) 主日ミサ 金沢教会 説教王であるキリスト 2020年11月22日 最も小さい者の一人に マタイによる福音25章31-46節

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