11/29 待降節第1主日ミサ 説教

2020/11/27

        目を覚ましていなさい-待降節第1主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音13章33-37節  B年の朗読箇所は、「小黙示録」と呼ばれているマルコ13章から始まります。「黙示」とは、ギリシア語の動詞「アポカリュプトー」という動詞から派生した語で、「アポカリュプシイス」と呼ばれています。「アポー」は、分離を意味する接頭辞、「カリュプトー」は「覆い(おおい)をかける」という意味です。つまり、「アポカリュプトー」とは「かけられている覆いを取り除く」ことを意味し、「黙示文学」とは、「世の終末に関する、秘密の覆い(=ベール)を取り去る文学」ということになります。  黙示文学は紀元前2世紀から紀元後2世紀の400年にわたって流行していました。したがって、イエスの時代も流行していました。この文学の特徴は、天体、天の軍勢、天使と悪魔の戦い、そういう神話的、宇宙論的なファンタジーやイメージを使っていることです。黙示文学の代表的なものとして、旧約聖書ではダニエル書、新約聖書ではヨハネの黙示録があります。  イエスの時代の人々は、神の介入によって、イスラエルの秩序が回復され、この世界は完成され、そしてこの世界の終わりを迎えると思っていました。この世界が終わった後に来るのは神の支配する国(=神の国)です。だから、終末は裁きではなくて完成(=救い)です。完成されたら、人々が喜び溢れる神の国が到来します。終末は、怖れることではなく、神を信じる者にとっては喜び・希望のときなのです。  聖書の中で一番警戒されているのは、終末は、「いつ来るのか」、「どこの場所に来るのか」、を問題にすることです。このような黙示文学の影響を受けている聖書箇所を読むときは、終末に備えて、「今」を自分がどのように生きているのか、を語りかけ、神に立ち帰ることが求められています。終末のとき、主のみ前にふさわしく立てるように、「今」備えて生きる。「今」の自分の生き方を考えることが大切です。  今日から待降節に入ります。待降節というのは、ラテン語で「アドベントゥス」と呼ばれていますが、この言葉は「到来」という意味を持っています。待降節は二つのことの「到来」を準備して待つ期間です。一つ目は、降誕祭を準備して待つ期間です。そして、もう一つは、キリストの再臨を意識して準備する期間でもあります。教会の典礼において主の降誕を記念して祝うことの意味は、過去の降誕の出来事の記念を祝いつつ、未来の主の再臨を希望するうちに待つというところにあります。  初代教会のキリスト者は、イエスの復活の出来事を、イエスが父の右の座に着いたことと解しました。「神はこのイエスを復活させ┅┅主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2章32節、36節)。イエスは、復活し、父のもとにあげられることによって、私たちのもとを去ってしまわれたのではなく、目に見えない姿で、おいでになります。だから、教会が典礼暦の始め(待降節第1主日)にキリストの再臨を祝うのは、無限に遠いと思われがちな未来のことを考えさせるためではなく、復活を通してすでに来られている主をふさわしく迎えさせるためなのです。  今日の福音の中で「その時」(33節)という言葉や、第二朗読の「主イエス・キリストの日」(Ⅰコリント書1章8節)という言葉はいずれも終末のときを意味しています。終末というのは、第一には「この世の終わり」つまり「キリストの再臨」のときを意味しています。しかし第二には、私たち一人ひとりにとって、それは私たちがこの世を去るときのことも意味しています。このようなときを私たちは待つのです。  今日の福音  「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節a)の勧めを強く印象づけるために、ひとつの譬えが語られます(34節)。この譬えは教会の状況を示す寓喩(ぐうゆ)です。家の主人(=教会の主イエス)は旅に出て(=昇天)不在です。「僕たち」あるいは「門番」(=教会の信徒)は主人の突然(36節)の帰宅(再臨)に備えて常に目を覚ましていなければならない。さらに主人は「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせています」(34節)。教会に属する者たちは、終末が差し迫っている状況の中でも、イエスから割り当てられた仕事の責任を果たさなければならない。仕事とは、マルコはすべての民への福音宣教と考えています。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」(37節)という言葉は、今日の福音における終末に関する教えが四人の弟子(13章3節)だけへの教えではなく、「すべての人」すなわちすべての教会員に対する教えであることを明らかにしています。  今日の福音のまとめ  今日の福音では「目を覚ましている(グレーゴレオー)という語が三度(34・35・37節)使われています。目を覚ましていると言っても、①文字通りに「目を開けて眠り込まずにいる」状態のこともあれば(34節)、②体ではなく心の状態を表し、そのような事態にも対応できる注意深さを表して「覚めている」こともあります(35・37節)。  終わりの日にキリストは再臨し、私たちを救うのですから(27節)、不安に脅えながら「目を覚ましている」のではありません。救いへの希望に燃えて待っています。主が救うために到来するという希望がキリスト者を支え、「目を覚ましている」ことを可能にします。  このように「目を覚ましている」は、キリスト者や教会が保つべき根本姿勢を表し、その場合、「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。┅┅何事も愛をもって行いなさい」(Ⅰコリント書16章13-14節)、「感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(コロサイ書4章2節)、「身を慎んでいなさい」(Ⅰペトロ書5章8節)のように、他の命令形と一緒に使われています。                   2020年11月29日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教待降節第1主日 2020年11月29日 目を覚ましていなさい マルコによる福音13章33-37節

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