12/13 待降節第3主日ミサ 説教

2020/12/10

       来たるべき方を証しする―待降節第3主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ヨハネによる福音1章6-8節・19-28節  第一段落(6-8節)  この段落では、「証しする」が、合計三度使われており、洗礼者ヨハネの使命が「洗礼者」ではなく、「証言者」という一点に絞られています。ここでは、洗礼者ヨハネは、教会の「証言者」として理想化された者として描かれています。  ヨハネ福音書では、受肉した神の子(=イエス)の業と働きが「光」にたとえられていますが(7節)、洗礼者ヨハネはそのような光ではありません(8節)。むしろ、この光について「証しする」ために来たのであり(8節)、「すべての人が信じるようになるために証しする」ことが彼の使命です(7節)。  第二段落(19-21節)  ここでは、「あなたは誰ですか」という問いが三度も洗礼者ヨハネに向けられますが、彼の答えはいずれも否定形です。  「あなたは、どなたですか」(19節)→「私はメシアではない」(20節)  「あなたはエリヤですか」(21節) →「違う」(21節)  「あの預言者なのですか」(21節) →「そうではない」(21節)  「エリヤ」も「あの預言者」も、「メシア」と並び、終末時に到来が期待されていた特別な人物ですが、洗礼者ヨハネは自分がそれであることをきっぱりと否定します。  「キリスト」は「油注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」のギリシア語訳です。旧約では王(サムエル記下2章4節)や祭司(出エジプト記29章7節)は就任のとき、油を注がれました。イエスの時代にはメシアは救い主を指すようになりました。  「エリヤ」は、マラキ書3章23節「見よ、私は 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたがたに遣わす」に見るように、死なずに天に火の車によって移されたエリヤが、終末の時再びやって来ることが期待され、メシア的存在として考えられていました。  「あの預言者」は、申命記18章15節、18節の「モーセのような預言者」の意味です。これもメシア的存在として用いられていたので、洗礼者ヨハネがメシアではないと否定したことと同じです。  洗礼者ヨハネは「私はメシアでない」と「公言して隠さず、言い表します」(20節)。彼は人々の期待や予想の間違いをはっきりと「公言した」のです。しかも、三度の否定は段々と素っ気ないものになっています。このような変化は否定を強めると同時に、続く23節の肯定形による返答をいっそう印象深いものにしています。  第三段落(22-23節)  23節で洗礼者ヨハネは、「私は『主の道をまっすぐにせよ』と『荒れ野で叫ぶ声である』」と告白し、自らを「声」にすぎないと言います。洗礼者ヨハネの使命は、主の到来に備えるようにと告げる「声」に徹することだったのです。  イザヤ書40章3節から引用した「主の道を真っ直ぐにせよ」と「荒れ野で叫ぶ声である」は(23節)、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)でも洗礼者ヨハネを指しますが、ヨハネ福音書だけがこの引用の前に「私は」を加えられています。自分の使命が「声」にあることを洗礼者ヨハネ自身が認めていたことになっています。こうして、「来たるべき方を証しする」洗礼者ヨハネの使命がいっそう強調されています。  第四段落(24-28節)  洗礼者ヨハネが人々の期待や予想を否定し、「荒れ野に叫ぶ声」にすぎないと答えたので(23節)、派遣された人々は、なぜ特別な人物でもない洗礼者ヨハネが洗礼を授けるのですか、と新たな問いを投げかけます(25節)。  この問いに対して、ヨハネは「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と答え(26節)、「私の後から来られる方」(27節)の力強さと偉大さを力説します。その方は「あなたがたの知らない方」(26節)、つまり人間の経験や知識を越えた方です。その「来たるべき方を証しする」ことが洗礼者ヨハネの使命なのです。  今日の福音のまとめ  洗礼者ヨハネの使命は、「来たるべき方を証しする」ことでした。  イエスという「光」(7-8節)は、奇妙な「光」です。普通、光はそれ自体と存在と出現で、闇を追い払ってしまいます。他者の援助(=証し)を必要とはしません。しかし、イエスという光は、証しが必要です。「信じる」とは、「証し」を真実なものと認め、受け入れることです。神は「証し人(あかしびと)」となるよう洗礼者ヨハネを召し(6節)、彼はその使命を果たしました。共観福音書では、弟子として召される人々は、「私について来なさい」という言葉が直接イエスからかけられます。それにひきかえ、ヨハネ福音書では、通常、イエスを紹介する誰かの証しを受け入れてイエスと出会った人々が、イエスから使命を授けられたり、称号を与えられたりして(1章42節)、今度は自分が証し人となり、他の人をイエスに出会わせるということをしています(1章35-37節、40-42節、45-51節)。  第二朗読(Ⅰテサロニケ書5章16-24節)では、パウロは再臨する来たるべき方に備え、信徒に勧めます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。霊の火を消してはいけません」(16-19節)。そして祈ります。「主が来られるとき、霊も魂も体も守られ、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(23節)。待降節を過ごす私たちの「証し」をパウロのこの勧めと祈りに見たいと思います。                   2020年12月13日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教待降節第3主日 2020年12月13日 来たるべき方を証しする ヨハネによる福音1章6-8節 19-28節

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