1/10 主の洗礼(祝日)ミサ 説教

2021/1/8

         イエスの受けた洗礼―主の洗礼B年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹  洗礼者ヨハネの言葉(7-8節) 洗礼者ヨハネは、イエスが授ける洗礼は「聖霊による洗礼」だと宣言します(8節)。マルコは、イエスは受洗によって聖霊を受けると(10節)、初めから神の子と宣言され(11節)、荒れ野に送り出されて(12節)、野獣と一緒におり、天使たちが彼に仕えていた(13節)と、身を脅かす危険の中で神の保護を語ります。このようにイエスは、受洗を境に、聖霊によって、全く別の世界に招き入れられます。つまり、イエスが授ける洗礼は時代全体を聖霊で満たす「洗礼」です。ヨハネは民に洗礼を授けましたが(8節)、そのヨハネからイエスは洗礼を受けます(9節)。この受洗によって、イエスは民の一人つまり民と「共におられる神」となり、その民を「聖霊による洗礼」によって、新たな時代へと招き入れるのです。  イエスの受けた洗礼(9-11節)  マルコ1章9-11節  そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  マタイ3章13-17節  そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。┅┅イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  ルカ3章21-22節  民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。  ヨハネ1章31-34節  「わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」。そしてヨハネは証しした。「わたしは霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。  イエスの受けた洗礼の記事は四人の福音記者によって多少異なっています。マルコの記事は、洗礼を受けた出来事(9節)と天からの顕現(10節)を二つの独立文で報告します。対して、マタイとルカでは、洗礼を受けた出来事よりもそれに続く顕現の方が重視されています。ヨハネに至っては、洗礼者ヨハネの証し(1章31-34節)の中以外にはイエスの受けた洗礼のことは全く言及されていません。顕現(けんげん)┅┅はっきりと現れること。  次に受洗の直後に聞こえた声ですが、マルコでは「あなたはわたしの愛する子」ですからイエスに向けて直接に語りかけた言葉です。しかし、マタイでは「これはわたしの愛する子」ですから、イエス以外の第三者に向けた言葉となります。ヨハネでは、見聞きしているのは洗礼者ヨハネだけです。このことから考えれば、マルコによれば、イエスが誰であるかを人々に証しすることよりも、イエス自身が「神の子」としての自らの使命を確認しています。  今日の福音のまとめ  ヨハネが授ける洗礼は「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」ですが(1章4節)、そうであれば、罪のないイエスが、なぜヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。  マルコは1章5節で「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、┅┅洗礼を受けた」と述べ、ヨハネの洗礼が民全体に広がっていたことを強調します。それを思い起こすならば、イエスの受洗は、それによってこの民の仲間となるためです。つまり、イエスが受洗を必要としたというのではなく、罪人である私たち人間と「共におられる神」ということで、共におられるならば同じ立場に身を置かねばならないのです。それは罪人の人間と同じ立場に立つことですから、ヨハネから洗礼を受ける必要が生じるのです。  11節「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声の背景には、イザヤ書42章1節「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す」があります。この引用はイエスを「主の僕」と結び付けます。イザヤの述べる「主の僕」が民の罪を背負って死ぬように、イエスも十字架上で死にます。「洗礼」は、10章38節で「このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と弟子たちに尋ねたときのように、イエスの十字架上の死を表しています。イエスはヨハネから洗礼を受けることによって、主の僕の使命を自ら引き受けます。  「洗礼」は「水に浸す(ひたす)、沈める」という動詞から来ています。その意味するところは、単に「水をかけて」罪や汚れを洗い流すというようなものではなく、古い自分がいったん死に、新たな人間として生まれ変わるということです。「聖霊で洗礼を授ける(=聖霊に沈める)」(8節)というのは、イエスの使命(=十字架上の死)は、人間を聖霊によって神との交わりそのものに導くものであることを示す言葉です。  イエスが授ける洗礼を8節で述べ、この洗礼が9-11節と結び合わされています。8節の洗礼が私たちの受ける洗礼です。私たちの洗礼はイエスが自らの体で聖化した洗礼です。それを示すために、イエスが授ける洗礼(7-8節)とイエスの受けた洗礼の出来事と天からの声(9-11節)とが一緒に朗読されます。イエスが洗礼を受けたのは、聖霊を受けてその使命(=私たちの受ける洗礼を聖化する、すなわち十字架上の死)を果たすためなのです。                    2021年1月10日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教主の洗礼 2021年1月10日 イエスの受けた洗礼 マルコによる福音1章7-11節

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