2/7 年間第5主日ミサ 説教

2021/2/3

            もてなした―年間第5主日B年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音1章29-39節  今日の福音の文脈  マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて(回心して)福音を信じなさい」は、福音書全体の序1章1-15節を閉じる節であると同時に、16節以下の「二組の兄弟の召命物語」の導入にもなっています。  「神の国の福音」は、ルカではその福音の内容に重点が置かれ(例えば、公生活の幕を切っておとすナザレの会堂でのメッセージ ルカ4章16-30節)、またマタイでは「山上の説教」の中でその大綱が示されているのに(マタイ5-7章)、マルコではイエスの長い話ではなく、イエスの死と復活を含む地上生活そのもの、つまりイエス自身の人格(=イエスの言葉と行為)の中に「神の国の福音」が示されます。  続く1章21-39節はカファルナウムでのほぼ一日の出来事を述べます。それをまとめれば、次のようになります。           イエスの行為         場  所           ① 21-28節    教え・悪霊追放          会堂         昼間  ② 29-31節   病気の癒し(いやし)        家          昼間  ③ 32-34節    癒しと悪霊追放         家の戸口        夕方  ④ 35-39節      祈り          人里離れた場所       早朝  会堂・家・家の戸口が場所に選ばれたのは、宗教生活(会堂)・個人生活(家)・公の生活(家の戸口)を表すためであり、イエスの業が人間生活全般に及ぶことを示すためです。この一日の間に人々を教えて(21節)、悪霊を追い出し(26、34節)、病気を癒します(31、34節)。この三つの行為は「神の国の福音」を宣べ伝える手段ですが、特に重視されているのは「教え」です。「教え」の内容は、マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて(回心して)福音を信じなさい」であり、この教えの確かさを示すために悪霊が追放され、病気が癒されます。しかし、悪霊追放や病気の癒しがイエスの到来の直接の目的ではありません。イエスが来たのは「神の国の福音」を宣べ伝えるためです(38節)。  家での癒し(29-31節)  イエスは悪霊追放をした後(先週の福音)、その会堂を出て、シモン(ペトロ)の家に入り、熱に苦しむシモンの姑を癒します。  この奇跡は治療奇跡の定式に従い、三つの要素を持っています。  A 病状の描写―熱を出して寝ていた(30節a)。  B 癒しの行為―手を取って起こすと、熱は去った(31節a)。  C 治療の証明―彼女はもてなした(31節b)。  ここでもこの三つの要素に従っていますが、ここでの特徴は、Cが目撃者の驚きではなく、癒された者がもてなした(直訳 仕えた)とあることです。  戸口での癒し(32-34節)  夕方になり、陽が沈み、安息日が終わります。安息日の終了を待ち兼ねていた人々が、「家の戸口」に集まり、イエスによって癒されます。  21節でカファルナウムに到着したイエスは、「会堂」(宗教生活の場)と「家」(個人生活の場)と「家の戸口」(公の生活の場)で病気の癒しと悪霊追放を行い、町中全体に「神の国の到来」―神が王となり、私たちを救ってくださる―を示します。  翌朝の出来事(35-39節)  32-34節で夕方に「家の戸口」で大勢の病人を癒し多くの悪霊を追い出すイエスの働きを報じましたが、ここではそれと対照に、早朝に人里離れた場所でただ一人祈るイエスの姿を描き出します(35節)。マルコはイエスの宣教活動が祈りと不可分であることをここで示します。このイエスの宣教活動はカファルナウムだけでなく、ガリラヤ全土に展開されなければならない(38-39節)。しかし、弟子たちはそれを理解せず、イエスを自分たちの町へ連れ戻そうとします(36-37節)。弟子たちの無理解が初めて暗示されます。  今日の福音のまとめ  シモンの姑は「もてなした」(仕えた 31節b)ことが治療の証明となっています。この「仕える」は単純に給仕するという意味ではなく、イエスに従う女性の姿を述べる用語です。しかも動詞の時称は継続的な動作の開始を示す未完了形ですから、「仕え始めた」という意味であり、奉仕は一時限りではなく、長く続きます。マルコにとって、この奇跡は、神の国の到来を示すと同時に、神の救いに出会った者が取るべき態度を教える奇跡なのです。つまり、イエスが「神の国の到来」―神が王となり、私たちを救ってくださる、というメッセージを語るというのであれば、それを受け入れた人、すなわち私たちの現実の中の何かが信仰によって変わるはずなのです。そうでなければ無力なメッセージとなります。  イエスは悪霊を追い出し、病人を癒します。その結果、人々はどんどん集まって来ます。大成功のように見えるのですが、イエスはそこには止まっていません。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出て来たのである」(38節)。イエスにとって大切なのは神の国の到来の福音を告げることです。イエスの活動は表面的には悪霊に苦しめられていた人が解放され、病気が癒されていくということです。しかし、神の国のメッセージは人を内面的に変えていく力だったのです。                    2021年2月7日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第5主日 2021年2月7日 もてなした マルコによる福音1章29-39節

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