3/28~4/4 聖週間の福音

2021/3/27

             聖週間の福音                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹  受難の主日  入城の福音:マルコ11章1-10節  イエスは過越の祭りが祝われる直前エルサレムに向かいます。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷きます(8節)。服を道に敷くことは王の即位を思わせます(列王記下9章13節)。葉のついた枝を道に敷くことも恭順(きょうじゅん)のしるしです。この同じ人々は、わずか何日か後、「十字架につけろ」(マルコ15章13節、14節)とピラトに圧力をかけて、イエスを拒絶することになります。マルコは、イエスが子ロバに乗って入城することを(7節)、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。┅┅見よ、あなたの王が┅┅ロバに乗って来る、雌(め)ロバの子であるロバに乗って」というゼカリヤ書9章9節の成就とみなしています。  受難の朗読:マルコ15章1-39節  マルコ福音書の「受難物語」のイエスの姿は、弟子たち(人間)に捨てられた孤独のイメージです。ゲッセマネでイエスが祈る間、弟子たちは三回も眠ります(14章37節、40節、41節)。ユダは裏切り(14章43-46節)、ペトロは呪ってイエスを知らないと言います(14章68節、70節、71節)。マルコは、弟子たちはすべてを捨ててイエスに従ったと伝えますが(10章28節)、逆に「受難物語」を読むと、すべてを捨ててイエスから逃げ去ったと感じます(14章50節)。イエスは6時間(午前9時-午後3時)にわたり十字架にさらされますが、初めの3時間は人々の侮辱(15章29-32節)、残りの3時間は全地が暗闇に包まれます(15章33節)。自然さえも、イエスを捨て去った印象を与えます。十字架上の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15章34節)です。  「受難物語」の背景として、マルコの教会は厳しい迫害にあっていました。また、マルコは残忍な殉教に遭遇(そうぐう)した多くの人を知っていました。そのような厳しい迫害に耐えていた教会を勇気づける必要がありました。教会が受けている試練や苦悩(=教会が背負っている十字架)は決して挫折(ざせつ)ではなく、イエスがそうであったように、彼に従うための模範であることを示したかったのです。  私たちは日常生活の中で、「受難物語」のように、イエスと共に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたいときがあり、イエスがそうであったように、神がその叫びをお見捨てにならないで現実をくつがえしてくださると信じて生きるときがあります。そのようなとき、「落胆して頭(こうべ)をたれておられるイエスの姿」に救いを見いだすのです。                  2021年3月28日(日) 金沢教会 受難の主日 説教  聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ  福音朗読(ヨハネ13章1-15節)  今日の福音のヨハネ13章から17章まで、イエスが「最後の晩さん」の席上語ったとされる談話が続きます。  「この世から父のもとへ移る御自分の時」とは、受難・死・復活による「贖い(あがない)の業」を指し、いよいよこの出来事が目前に迫っています。このとき、イエスは「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれました」(1節)。「この上なく愛し抜かれた」の、「この上なく(究極まで)」という表現は、イエスが十字架上で息を引き取られる直前に口にされた、「成し遂げられた」(19章30節)という語と、語幹が同じですので、イエスの十字架上の死が、「極みまでの愛」の実現であったことを、こういう言語上の関連も示していることになります。また、最後の晩さんの席上では、この同じ愛が、「弟子たちの足を洗う」という奉仕の業となって具体的に示されました。  「他人の足を洗う」行為は、奴隷の役目でしたが、師であり、主(しゅ)である方(かた)が、弟子であり、従者である者たちに、こういう形で奉仕をしました。「奉仕という愛」を実践したのです。そのねらいは、イエスの言葉にあるとおり、弟子たちが師の模範に倣って(ならって)、互いに奉仕し合うことにありました(15節)。  イエスのこの実演を伴う教えは、「愛の掟」の授与につながっていきます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13章34-35節)。この掟の新しさはまさに「わたしがあなたがたを愛したように」にあります。「弟子たちの足を洗う」という奉仕の業は、愛の模範の顕著な例です。その愛に倣って、共同体として相互愛に励むことこそ、「新しい愛の掟」の実践となるのです。             2021年4月1日(木) 金沢教会 主の晩さんの夕べのミサ 説教  聖金曜日・主の受難  受難の朗読(ヨハネ18章1節-19章42節)  ヨハネ福音書の「受難物語」の伝えるイエスのイメージは「王であるキリスト」です。聖書の神の名「ヤーウェ」の日本語直訳は「わたしはある」です。ローマ兵とユダヤ人がイエスを捕らえたとき、「わたしはある」(18章5節)と語られると、彼らは後ずさりして地に倒れます(18章6節)。園では「試練と死のときから救ってください」とは祈りません(18章1節以下)。キレネ人のシモンも登場せず、イエス自ら十字架を背負います(19章17節)。「ユダヤ人の王」という言葉はヘブライ語の他、当時ローマ帝国の主要な言語であるラテン語、ギリシア語で書かれ(19章20節)、ピラトが認めます(19章22節)。イエスは十字架の下でも孤独ではなく、愛する弟子とイエスの母が立っています(19章25-27節)。埋葬も王としてふさわしく100リトラばかりの香料に包まれています(19章39-40節)。  「受難物語」の背景として、ヨハネの教会が迫害、特にローマ帝国からの取調べや罰、或いは死にさらされていた現実がありました。ローマ帝国の絶大なこの世の権力、権威に迫害されていました。「わたしの国はこの世には属していない」(18章36節)。「受難物語」を通して、この世のものには何の力がないことをヨハネは伝えているのです。  私たちは日常生活の中で、この世の力、そこから出る悪、苦しみは、神のみ前では何の力もないことを信仰によって理解すべきときがあります。そのようなとき、「王であるイエスの姿」にこの世のはかなさを読み取ることができるのです。                    2021年4月2日(金) 金沢教会 主の受難 説教  復活の主日:復活の聖なる徹夜祭  福音朗読(マルコ16章1-17節)  墓へ向かう女性たちの心配は墓の前に置かれた大きな石でした。誰が取り除いてくれるかと心配していましたが、到着してみると、石は取り除かれていて、すぐに墓に中に入ることができます(3-4節)。ここで面白いのは、石が取り除かれていたのに、それを驚いていないことです。  彼女たちが驚くのは、墓に入って、白い衣を着た若者を見たときです(5節)。この若者が神の使いを表すのは明らかですが、マルコは大げさな描写を避けます。このような控えめな描写は、取り除かれた石に驚かなかったことと共に、マルコの興味をよく表しています。彼にとって大事なのは、目を奪うような出来事でも、尋常では考えられない神秘的なあり様(ありよう)でもなく、神との出会いです。このことは天使の「あの方は復活なさった」(6節)という言葉からもうかがえます。この動詞は受動態で書かれており、イエスが自分の力で復活することなく、神の力によって復活させられることです。マルコの描写の仕方から考え、空(から)であった墓に重点を置いていません。むしろ神との出会いそのものです。 女性たちは復活の使者として弟子たちのところに遣わされます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」(7節)。この言葉には弟子たちに対する愛が現れています。ペトロはイエスを三度も否認し(14章66-72節)、弟子たちはイエスを見捨てますが(14章50節)、イエスは弟子たちを見捨てません。  「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。┅┅そこでお目にかかれる」(7節)。ガリラヤはイエスが宣教を開始した場所であり、弟子たちや女性たちがイエスと出会った場所です。また、マルコの教会の宣教の拠点であり、弟子たちや女性たちの出身地です。そこは弟子たちや女性たちにとって日常生活の場所です。そして、7節のこの言葉は私たちのガリラヤ(日常生活)における、イエスとの新しい出会いに私たちを招いています。「イエスは先にガリラヤへ行かれる」。私たちは、いつガリラヤ(日常生活)で彼と出会うことができるのか、決してわかりません。ただ私たちは常にイエスと新しく出会うための心の準備をすることを知っています。               2021年4月3日(土) 金沢教会 復活の聖なる徹夜祭 説教  復活の主日:日中のミサ  福音朗読(ヨハネ20章1-9節)  今日の福音には「見る」が四度も現れます。ただし同じギリシア語ではなく、1節と5節の見るはブレポー、6節の見るはテオレオー、8節の見るはエイドンです。  1節 マリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た(ブレポー)  5節 (もう一人の弟子が)身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった(直訳 置いてあるのを見た〔ブレポー〕)。  6節 (ペトロは)墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た(テオレオー)  8節 もう一人の弟子も入って来て、見て(エイドン)、信じた。  ブレポーはごく普通に「身体的に見る」であり、テオレオーは「時間をかけてじっくり観察する」ことであり、エイドンは「心の目で真理を洞察(どうさつ)する」ことです。テオレオーとエイドンのニュアンスを知るのに格好な場所がヨハネ16章16節にあります。  しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる(テオレオー)が、またしばらくすると、わたしを見る(エイドン)ようになる。  文脈から見て、このテオレオーは「肉体の目でイエスを見る」であり、エイドンが「信仰の目で復活のイエスを見る」を意味するのは明らかです。  8節のエイドンが「心の目で見る」を意味するなら、それが「信じる」と一緒に使われるのもごく自然です。「墓から石が取りのけてある」(1節)→「亜麻布が置いてある」(5節)→「離れた所に丸めてある」(7節)というように、イエスの復活の状況証拠となりうる事柄が「見る」の目的語として語られています。しかし、最後の8節の「見る」(エイドン)には何も目的語がありません。このように目的語を述べないことによって、「見る」の次元が精神的なもの(=信じる)へと高められたことを示しています。  イエスを「信じる」ことが可能となるためには「肉体の目で見る」だけでは不十分であり、もうひとつの別の目が大事となります。最初に信じることのできた弟子は、「イエスが愛しておられた弟子」(2節)です。イエスの十字架も復活も神の愛の出来事です。十字架が救いとなるためには復活がなくてはならない、ということですから、これはワンセットにして神の愛の出来事です。この弟子はイエスが先に自分を愛してくださったことを知っていました。「愛」が「信じる」ための前提となるのです。            2021年4月4日(日) 金沢教会 復活の主日(日中のミサ) 説教聖週間の福音 2021年3月28日ー4月4日

お知らせ一覧へ戻る