麦穂9月号巻頭言 パラリンピックから学んだこと 主任司祭 細井保路

2021/9/18

     パラリンピックから学んだこと                             細井保路(ほそいやすみち)  9月の初めのことですが、テレビをつけたら、ちょうどパラリンピックの受賞者のインタビューが流れてきました。フェンシングのベアトリーチェ・ビオさんというイタリアの人でした。「コロナ禍の世界に向けて伝えたいことは」という質問に対して、「よい人たちの支えがあればすばらしいことは起きます」と答えていました。「グッド・ピープル」というわかりやすい英単語が聞こえてきたせいもありますが、思わず真剣に画面を眺めました。そして笑顔で答える彼女は、ただ者ではないと思いました。  人の善意と支援を味方につけて不可能なことを可能にしていくというポジティブな姿勢は、神さまのはからいに信頼して歩む信仰者の姿勢に通じるものがあります。彼女のことが気になって、ネットで調べてみました。すると、もっとすごい言葉に出会いました。それは、今回のパラリンピックでリポーターを務めた後藤佑季さんによるインタビューの記事でした。  「以前は、私の腕は指の先までだったけど、手がない今は、無限。脚も無限。つまり、私の置かれた状況には限界がないってことを理解したんです。新たなやり方を考え出せばいいんだって。」  11歳のときに、手と足を失うという辛い出来事に遭遇した人から、「何かを失うことは、限界が取り払われるということでもあるのだ」という深い言葉が生まれてくることに衝撃をうけました。この気づきは、私たちと神さまとの関係を考えるときにも必要なことです。  私たちは、神さまから頂いたいのちや能力やチャンスに対して、感謝しています。そして、頂いたいのちや力を精一杯使おうと心掛けます。精一杯ということは、限界までということです。そしてその限界を「与えられた力」ではなくで、「自分の力」と思ってしまいます。神さまから来る力だということを忘れてしまうのです。そのくせ、限界を感じてしまうと、力が十分に与えられていないことに不満や失望を感じてしまうのです。自分のいのちは「自分のもの」と思った瞬間に、人間の存在は、各々に不公平な限界を背負ったものになってしまいます。でも、神のいのちと力と恵みを、ひたすら受け取り、感じ取り、感謝するための器なのだと気づいた瞬間に、「自分のもの」という狭い限界は取り払われ、どこまでも豊かな神の恵みを受け取る器であることに気づくのです。

お知らせ一覧へ戻る