麦穂3月号巻頭言 待っている神さま 主任司祭 細井保路

2024/3/6

             待っている神さま                              細井保路(ほそいやすみち)  イエスさまは12歳のときにご両親と一緒にエルサレムの神殿を訪れたと聖書は伝えています。しかもマリアさまもヨセフさまも過越祭のために毎年エルサレムに上っているのです。私たちが想像する以上にたくさんの人が神殿を訪れているのだと思います。神殿に行くことがかなわない人たちにとっても、憧れのエルサレムの神殿は、神さまがいつでも待っていてくださるということを思い出させる象徴的な場所だったのです。  四旬節第3主日の今年の福音書は、その神殿で怒りをあらわにするイエスさまの姿を描いています。神殿の境内で売り買いをしている人たちに対して、「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」とお叱りになったのです。  目を上げれば、いつでもどこにでも神さまはいらっしゃいます。呼びかけるならば神さまは必ずそこに居てくださいます。祈りはいつでも、そばにいてくださる神さまに出会うための入り口です。でも、雑事に追い立てられ、疲れを引きずって生活している私たちは、ちゃんと神さまと向き合うための時間や場所がほしいのです。よく祈る人は、そういう時間や場所をなんとか作り出していることでしょう。イエスさまの時代の人たちにとっては、神さまが確かに待っていてくださる場所である神殿を思い浮かべたり、実際にそこに足を運んだりすることは大いに助けになったことでしょう。その大事な、象徴的な場所が、神さま忘れて雑事に追われる場所と化してしまっていることをイエスさまは叱責されたのです。  「こんなことをするあなたは、どんなしるしを見せるのか」と人々は詰め寄ります。イエスさまは、「この神殿を壊せば3日で建て直す」と答えます。イエスさまご自身が、私たちに出会うために来てくださっている神さまだからです。象徴的な神殿の前でさえ神さまが見えなくなっている人たちにとって、目の前にいらっしゃるイエスさまも、自分たちの間違いを暴く不快な存在でしかなかったことでしょう。  私たちは、イエスさまの内に神さまの存在を認める恵みをいただいています。そしてイエスさまのうちで神さまが待っていてくださると気づくならば、私もどんなに不完全であっても「神を宿す神殿」であり、私が出会うどんな人も「神さまが待っていてくださる場所」であることを認めることになるのです。

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