麦穂8月号巻頭言 マツバボタン 主任司祭 細井保路

2026/8/10

             マツバボタン                         主任司祭 糸田井保路(ほそいやすみち)  子どもの頃、近所には農家が多く、その庭先には、必ずと言っていいほどマツバボタンが咲いていました。夏の炎天下に色とりどりの花を咲かせるマツバボタンは、私にとっては懐かしい花です。ところが、いつの頃からか、マツバボタンは影を潜め、かわりに園芸店ではポーチュラカが盛んに売られるようになりました。同じスベリヒユ科で、マツバボタンよりも派手な感じの花です。春の花が終わってしまったあとに、本当はマツバボタンを植えたいところを、代わりに毎年ポーチュラカを植えていました。  ところが、若い人たちが、マツバボタンを知らないということがわかり、これはどうしても植えなければと思いました。ネットで調べると、種も苗も売り出されています。しかし、身近なところでは売られていないし、何よりも咲いているのを見ることもありません。やっと手に入れて植えてみました。ポーチュラカより確かに地味なのだけれど、また会えたという喜びがありました。  マツバボタンが姿を消したのは、マツバボタンを植えるのに相応しい場所がなくなったからだということに気づきました。思い出の中のマツバボタンは、農家の開放的な庭先に咲いていました。家に鍵をかける必要のない世界でした。町内のさまざまな出来事は子どもでもうっすらと知っていました。人の出入りが激しく、近所に住んでいる人のこともわからない社会では考えられないことですが、不思議な開放感があったのです。しかしそれは、閉鎖的な村社会だったからこそ得られた開放感、安心感であったのです。  大きな矛盾ですが、閉鎖的な共同体の中には大きなやすらぎがあるのです。部外者のいない社会には安心感があるのです。でもそれは、限定的なニセモノの平和です。いつかは崩れてしまうものです。イエスさまは、イスラエル民族と言う閉じた世界の中で安心を求めるのではなく、神の御手の中にあるという本当の開放感を手に入れなさいと教えられたのです。  マツバボタンを植えてみて気づきました。私は、マツバボタンが懐かしかったのではなくて、外に向かって開けた庭の開放感が懐かしかったのです。子どもの頃の私は、閉じた共同体の中で、その狭さには気づかないまま、共同体の中の安心感を満喫していました。そして、何十年も経ってやっと、あの時の庭は、どこまでも広がる神さまの御手の一角だったのだと思い返すことができたのです。

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