受難の主日(枝の主日)ミサ説教 2020年4月5日

2020/4/3

           逆説的な信頼―受難の主日(枝の主日)A年                             ヨハネ・ボスコ 林 大樹  入城の福音(マタイによる福音21章1―11節)  旧約の預言の成就  「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(5節)。  「子ろば」には二つの意味があります。第一に、人の乗ったことのない牛などの家畜は、汚れのないことを意味し、特別な祭儀用の犠牲として用いられました(民数記19章2節、申命記21章3節)。第二にそれが、つながれた「子ろば」であることは、特に創世記49章11節の伝承の解釈によって、メシアの到来を意味するものと考えられました。従って、その「子ろば」をほどいてそれに乗るということは、イエスが汚れのないメシアとしてエルサレムに来るという意味になります。  イエスは、エルサレム入城の際に乗る「ろばの親子」の居所を予め(あらかじめ)知っています(2節)。それは旧約聖書(ゼカリヤ書9章9節)の預言の成就の出来事です。伝承の段階ではまだ暗示されていたにすぎないこの解釈が、マタイでは明確にされます。しかもその預言が文字通りに成就されたことを強調して、イエスが「ろばと子ろば」の両方の上に座ったと記します(7節)。フランシスコ会訳聖書の注釈では、「子ろば」は今まで人間に乗られたことがなかったので(マルコ11章2節)、「子ろば」を落ち着かせるために「母ろば」も一緒に引いてこられた、と説明しています。  柔和、謙遜(けんそん)、従順  「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろば(めろば)の子であるろばに乗って」(ゼカリヤ書9章9節)。  ろばは、パレスチナにおいては、ひき臼をひいたり、重い荷物を運んだりするために用いられていました。ろばは極めて従順に同じ所を一日中でも回ることが知られていました。馬と違って、いつでも頭を垂れている容姿からして謙遜ということを思い合わせることができます。軍馬は戦いを象徴するとするならば、ろばは平和や柔和を象徴します。それをイエスは用いて乗り物に採用したと理解されています。そのため、五節のゼカリヤ九章九節の引用から、「高ぶることなく(新約聖書では柔和な方)」だけを残し、「彼は神に従い、勝利を与えられた者」の句が削除されます。この削除には、メシアの謙遜の観点から受難を見ようとするマタイの強調点が読み取れます。  そして、弟子たちがイエスの命じた通りに行ったと記す(6節)ことで、マタイ1章24節と同様、キリスト者の従順な神の命令遂行を確認しています。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」(マタイ1章24節)。  受難の朗読A年(マタイによる福音27章11―54節)  ローマ人の裁判の場面(11―31節)  ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から「あの正しい人と関係しないように」という伝言があります(19節)。ローマ人でさえ、イエスを正しい方だと認めています。そして、ピラトは群衆の面前で手を洗い、イエスの死についての一切の責任はユダヤ人にあると言います(24節)。これに対して民全体が、「彼の血の責任は、我々と子孫に(かかってよい)」と答えます(25節)。福音の拒否、ローマ軍によるエルサレム破壊、マタイの現在におけるユダヤ民族の状況の全体が、それも将来にわたって、イエスを十字架につけたことがもたらした結果であることが主張されています。  イエスの死(32―54節)  イエスはすべての人から、父からさえも見捨てられて死んでいくように見えます。だが、その死こそ復活なのです。マタイは「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、(死者が復活した)」と記します(51節b)。この節は、エゼキエル書37章の言及であることに注意するべきで、共通のモティーフとして、墓が開いたこと、復活への明白な言及、復活者のイスラエルへの復帰があげられます。この旧約句は、個人の復活を意味すると理解され、メシアの日に起こることと信じられました。イエスの死の瞬間にこうした期待が実現し、死はすでに克服され、今やメシアの時に突入したのです。異邦人の百人隊長とその従者たちの信仰告白は、これらの出来事を目撃した結果でした(54節)。  イエスの死は、マタイにとっては、古い世界の終わりと新しい世界の始まりを告げるものです。これからは、ユダヤ人であっても異邦人であっても、救われるためにはイエスの十字架上の血によって結ばれた契約に入らなければならないのです。  今日の朗読のまとめ  「イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」(46節)。イエスはこの場面で詩編22を唱えます。詩編22は、最初は苦しみの訴えに始まっていますが、最後は神への信頼に終わっています。46節は、詩編22との関連で、「逆説的な信頼」といわれています。  私たちは苦しみの中で、苦しい状態から抜け出られるように神に必死に祈るけれど、状況に変化の兆し(きざし)はなく、祈りが聞き入れられないと思い、神に「見捨てられた」と感じることがあります。このような時こそ、「逆説的信頼」によって、柔和、謙遜、従順の姿勢を深められる時です。それは、「死」などの厳しい現実の中で自分が徹底的に壊され、それでも神に心を向けられる時だろうと思うのです。                 2020年4月5日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ミサ非公開の場合 受難の主日(枝の主日) 2020年4月5日 逆説的な信頼 マタイによる福音21章

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