11/1 諸聖人の祭日ミサ 説教
2020/10/26
イエスの与える幸い―諸聖人(11月1日) ヨハネ・ボスコ 林 大樹 マタイによる福音5章1-12節a 山上の説教(1-12節a) 山上の説教は、イエスの話や教えが垂訓(すいくん)の形にまとめたもので、イエスが説かれた神の思いに添った生き方とはどういうものなのか、を教えています。 旧約聖書の伝統では「幸い」は神と人との関係を示す概念であって、この世の幸福のことではありません。終末の時、神の裁きにおいて救われ、新しい時代に入るという神の約束としての「幸い」が述べられています。 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(3節)。 「心の貧しい人々」の直訳は「霊において貧しい人々」です。「心の貧しさを知る」というこの態度は、旧約聖書における「アナウィム」の態度を反映したものです。「アナウィム」の典型は、国家、富、身分などの誇りをはぎとられ、神だけに頼っている者です。つまり、自分の心の貧しさを知る者は、神以外に依存すべきものをもたないので、すべてを神にゆだね、謙虚に生きる者となります。それゆえ、天の国を得るのです。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる(4節)。 「悲しむ人々」の背景にはイザヤ書61章1-4節があります。そこでは油注がれた者(キリスト)は、貧しい人々に良い知らせをもたらすために、霊をもって任命され、「嘆いている人々を慰め シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の心をまとわせるために。┅┅彼らはとこしえの廃墟を建て直し」と言われています。文脈から言って、バビロン捕囚(紀元前587-538年)後のこの預言が、イスラエルの荒廃を悲しみ、それゆえに国民にそのような審判をもたらした不従順を「悲しむ人々」に向けられていたことは明白です。つまり、「悲しむ人々」とは、自分の罪深さを悲しむ人々のことなのです。ある解説書では、「私たちが社会において共有している人間の罪深さ(社会悪)を悲しむ人々」と説明しています。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ(5節)。 「柔和な人々」は「心の貧しい人々」とほとんど同義語です。すなわち、「柔和な人々」とは、不幸な境遇(きょうぐう)にあっても憤らず(いきどおらず)正しく生きる人々のことです。「地」は、特定の地域ではなく、「永遠の命」や「神の国」(マタイでは天の国)と言い換えることのできる現実を指しています。つまりマタイは「地を受け継ぐ」を「天の国はその人たちのものである」(1節)と同義語と理解しています。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる(6節)。 「義に飢え渇く」は、義が自分だけでなく、しいたげられた他の人々にも神によって行われることを望む人々のこと、または、自分自身が垂訓の説く義を果たそうと望む人々のことを指します。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける(7節)。 「憐れみ深い」とは、他者への愛であり、人を赦す心です。「憐れみ深い人々」には「聖なる受動態」が用いられています。すなわち、表現されていませんが、行動の主体は神である受動態と見るべきです。つまり「仲間たちに憐れみを示す人々は、幸いである、神が彼らをとおして憐れみを示したもうからである」ということになります。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(8節)。 「清い」とは「まざりもののない、水でうすめられていない」の意味で、「心の清い人々」とは、生活や行動において二心(ふたごころ)なく誠実にひたすら神を求める人々のことです。「神を見る」とは、王に拝謁(はいえつ)を許されることが王のちょう愛をうけることを意味するように、神のみ前に出ることが許され、ちょう愛をうけることを意味します。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(9節)。 「平和を実現する人々」とは、敵対する個人、家族、グループ、そして国家を融和させようと懸命に働くことに献身する人々のことを指します。「神の子」とは父なる神の性質を持つ者の意味です。父なる神は「平和の神」だからです。 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(10節)。 「義のために迫害を受けている人々」とは、「わたしのために┅┅迫害され」(11節)を先取りし、キリストを信じる信仰によって(キリストへの信仰ゆえに義とされています)迫害されている人々を指します。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである(11節)。 11節は10節の「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」を具体的に説明したものです。すなわち、抽象的な「義」を「わたし」という人称に変え、不定の「人々」を限定された「あなたがた」に言い換えています。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある(12節a)。 背景として、迫害をうけているマタイの教会の現状があります。私たちは、過去に迫害された諸聖人の苦しみを思い起こすことによって現在の苦しみを忍び、将来の救いを望むことによって、この世を生き抜くことを示しています。こうして、苦しみに耐えた人々は諸聖人の役を受け継ぐことになります。 今日の福音のまとめ 今日の福音は、マタイの有名な「山上の説教」の導入部「八つの幸い」(3-10節)です。教会は今日の祭日にこの句を選び、諸聖人たちがイエスの勧めた神の思いの実践によって、イエスの与える「幸い」、つまりその祝福にあずかる者となったことを教えています。 2020年11月1日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教諸聖人 2020年11月1日 イエスの与える幸い マタイによる福音5章1-12節a