12/24-25 主の降誕(前晩・夜半・早朝・日中)ミサ 説教

2020/12/22

         主の降誕(前晩・夜半・早朝・日中)                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹  インマヌエル―主の降誕(前晩) マタイによる福音1章18-25節  マタイ福音書の誕生についは、受胎から誕生の経緯(けいい)も誕生地の記述もなく、誕生さえ副文(正文にそえた文章)の中で記されているにすぎません(25節)。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)という預言の成就が強調されています。  この引用は旧約聖書ギリシア語訳に忠実に従っていますが、一箇所だけ例外があります。「呼ばれる」の主語を二人称単数から三人称複数に変えたことです。マタイはこの三人称複数を誰と考えたのでしょう。  インマヌエルとは「神は我々と共におられる」(23節)の意味ですが、マタイ福音書の最後(28章20節)でもイエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束します。イエスの呼び名がインマヌエルなのではありません。彼の在り様(=存在)、本質を指してインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれます。誕生のときから世の終わりまで、イエスはインマヌエルなのです。彼は信じる者と今もいつも共にいます。  とするならば、三人称複数は教会に集うすべての人です。彼らは「イエスと我々と共におられる」ことを、身をもって知り、インマヌエルと呼びかけます。イザヤ書7章14節の引用は、イエスの誕生を飾り立てるためではありません。むしろ、我々に対する呼びかけです。イエスは我々と共におられる。我々もインマヌエルと呼びましょう。そういう呼びかけです。  救い主のしるし―主の降誕(夜半) ルカによる福音2章1-14節  この福音は、イエス誕生の出来事(1-7節)とイエス誕生の出来事の意味(8-14節)の二つの段落に分けられます。  イエス誕生の出来事の意味の段落で見落とせないことは、出来事の意味がイエス誕生の場所から離れた所で、しかも町の権力者や支配階級、大金持ちの人たちでなく、ベツレヘムの野原で夜勤をしていた羊飼いたちに対して―彼らは尊敬されていたとは必ずしも言えない人たちです―明かされたことです。天使はその羊飼いたちに救い主の見つけ方を言います。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)と。普通のベビーベットではなく、羊や山羊(やぎ)のエサとなるワラや牧草の入った飼い葉桶の中に寝かされている「小さな」「弱い」「貧しい」赤ちゃんが「救い主のしるし」だと言うのです。  神は今も、こういう「小さな」「弱い」「貧しい」しるし、注意していないと見過ごしてしまうようなしるしで、私たちのところへ到来するのです。  救い主は約二千年前の「今日」生まれただけではありません。私たちは今日、自分の「小ささ」「弱さ」「貧しさ」を見つめましょう。そして、周りにいる人たちの「小ささ」「弱さ」「貧しさ」に心を留め、思いやりましょう。そこに「救い主のしるし」である飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける「今日」、私たちの心の中に救い主が再び生まれるのです。  いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ―主の降誕(早朝)   ルカによる福音2章15-20節  早朝のミサの福音は、夜半のミサ(ルカ2章1-14節)の続きです。羊飼いたちは「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます」(16節)。羊飼いたちは「その光景を見て、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせます」(17節)。彼らは今や「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2章10節)を人々に「知らせる者」となり、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思います」(18節)。しかし「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らします」(19節)。「心に納める」は、「しっかり保つ、長持ちさせる」という意味です。  ルカはこの場面で、天使たちが歌った「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(2章14節)という賛歌が、「今」ベツレヘムの羊飼いたちの中で、またマリアの心の中で成就したことを告げます。そしてこれは「今」、飼い葉桶に寝かせてある幼子を求めて教会に来るすべての人にとっても同じことです。この幼子は「御心に適う」すべての人の心の中に生まれ、平和を与えます。なぜなら、天(=神)と地(=人)が幼子(=イエスの十字架上の死)を通して一つに結ばれたからですからです。  言が肉となった―主の降誕(日中) ヨハネによる福音1章1-18節  なぜ、イエスのことを「言(ことば)」と呼ぶのでしょうか。それはヨハネ福音書が「啓示の書」だからです。啓示とは、神がイエスを通して自分を人々に教え示すことです。そういう意味で、イエスは「肉となった言」、すなわち、この地上における生涯の「初め」から神と共にあって、神を啓示する者であり、「万物」(=神の救いの計画のすべて)は「言であるイエス」によって、啓示され、実現した(=成った)のです(1-3節)。  「言(=イエス)」を信じる人々に与えられるのは「神の子となる資格」です(12節)。「私を信じる者は、永遠の命(父・子・聖霊の交わりにあずかる形の神的な命)を得る」(6章40節)という言葉と並べると、それは「神から生まれた者」として、イエスと交わり、共に「父なる神の子」になることです。私たちをこのような状態にまで高める神の救いの計画(=イエスの十字架上の死)をヨハネ福音書は「栄光」と呼びます。イエスは「父の独り子としての栄光」を帯びておられ、「恵みと真理(=真理という恵み)」に満ちています」(14節)。真理とは「イエスがもたらした啓示」の内容です。モーセによって与えられた律法による啓示のあと、イエスによる真理の啓示の時代が到来したのです(17節)。言が肉となって、神の啓示が見える出来事となって、私たちを神の子とし、父まで導いてくれるのです。          2020年12月24日(木)、25日(金) 金沢教会 主の降誕のミサ 説教主の降誕(前晩・夜半・早朝・日中) 2020年12月24-25日

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