1/24 年間第3主日ミサ 説教

2021/1/20

     見て、呼びかけたイエスの言葉に応じる―年間第3主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音1章14-20節  イエスの活動(14-15節)  いかに美しいことか  山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。  彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え  救いを告げ  あなたの神は王となられた、と    シオンに向かって呼ばわる。(イザヤ書52章7節)  ここで「あなたの神は王となられた」と訳された表現は、新約聖書の時代が近づくと、「神の国」という言い方に替わってゆきます。また、「良い知らせを伝える」と訳された語は、新約では「福音を宣べ伝える」という言葉になってゆきます。イザヤの預言がされたのは、イスラエルがバビロニア帝国によって滅ぼされ、おもだった人々がバビロンに強制連行されていた時代(紀元前6世紀)のことです。かつてのユダヤの王や外国の王たちによってさんざん苦しめられた人々にとって、「神が王となる」というのは最高の良い知らせでした。  「時は満ち、神の国は近づいた」(15節)のニュアンスも大切です。「満ちた」も「近づいた」も完了形の動詞です。イエスは完了形を用いて、すでに現実となった事実を示してから、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけます。悔い改めることによって時が満ちるのではありません。イエスの到来によって満たされ、近づいてもうそこに来ているから、悔い改めという対応が人々に求められています。  「悔い改め」は「メタノイア」の訳です。この言葉は、旧約聖書では同じことを「主に立ち帰る」と表現しますが、目を転じて神のほうを向き直るというのが根本的な意味です。そこで「メタノイア」の訳としては「改心」ではなく、「回心」と書きます。  「福音を信じなさい」というときの「福音」は「神の国は近づいた」というメッセージそのものです。その「神が王となって救ってくださる」という良い知らせを信じる。この「信じる」も、ただ「本当だと思う」という意味だけでなく、「そこに信頼をおく。信じて自分をゆだねていく」という意味の言葉です。   弟子作り(16-20節)  この段落では二組の兄弟の召命が16-18節と19-20節に語られていますが、この両者は同じ構造を持っています。 16-18節               19-20節 ㋑ 歩いていると            少し進むと ㋺ 網を打つ兄弟を見た         網の手入れをしている兄弟を見た ㋩ 言った               呼びかけた ㋥ 捨てた               捨てた ㋭ 従った               後について行った (イ)宣教活動の舞台となるカファルナウムを目指すイエスは、弟子を求めています。 (ロ)イエスが「見る」ことによって、弟子の召命は始まります。この「見る」は「選ぶ」にも等しいことです。 (ハ)列王記上19章19-21節に、召命物語の原型があります。そこでは、預言者エリヤは自分の外套(がいとう)を投げかけるという象徴的な行為によってエリシャを召し出しています。しかしイエスは、ただ呼びかけの言葉によって弟子たちを召し出します。 (ニ)このイエスの言葉には有無を言わせぬ力があります。その力に引き寄せられた弟子たちは、網や肉親を捨てます。 (ホ)彼らは無言のままイエスに従います。彼らに心の準備があったのではない。彼らは、イエスを通して働く力に捕らえられたのです。  今日の福音のまとめ  14節では「神の国の福音」を宣べ伝え、15節では「福音を信じなさい」という具合に「福音」という用語が二度使われています。「福音」は、ルカではその福音の内容に重点が置かれ(例えば、公生活の幕を切っておとすナザレの会堂でのメッセージ ルカ4章16-30節)、またマタイでは「山上の説教」の中でその大綱が示されているのに(マタイ5-7章)、マルコではイエスの長い話ではなく、イエスの死と復活を含む地上生活そのもの、つまりイエス自身の人格(=イエスの言葉と行い)の中に「神の国の福音」が示されています。  「時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)はマルコ固有のもので、マタイ(4章17節)では「悔い改めよ。天の国は近づいた」となっているだけです。マルコは、イエスの到来と宣教、つまりイエスの言葉と行いのうちに、旧約において約束された時の充満と神の国の到来を読み取って、今や決断をもってイエスを信じ、回心しなければならないと説きます。その例として、見て、呼びかけたイエスの言葉に応じて「すぐに網を捨てて従った」(18節)ペトロとアンデレ、また「父を雇い人たちと一緒に舟に残して」(20節)イエスの後について行ったヤコブとヨハネの召命を物語ります。  マルコがこの二組の兄弟の召命物語で描いているのは、弟子のあるべき姿です。弟子になる人の能力や資格は問題ではありません。見て、呼びかけるのはイエスです。問題はそれにどう応えるかなのです。イエスはまず弟子作りから始めます。「神の近づいた」というメッセージは、実際にイエスと共にこの神の国(神の支配=神が王となって救ってくださる)を生きる弟子たちがいることによって実現し始めるのです。                    2021年1月24日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第3主日 2021年1月24日 見て、呼びかけたイエスの言葉に応じる マルコによる福音1章14-2

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