1/31 年間第4主日ミサ 説教

2021/1/28

        権威ある新しい教え―年間第4主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音1章21-28節  権威ある新しい教え―今日の福音の構造 21-22節 権威を持つ者のような教えに驚いた     21節a  全般的状況設定―カファルナウム     21節b  正確な状況設定―安息日、イエスの一行が会堂に「入った     21節c  本質的行為―「教えた」ということ     22節  応答(反応)―驚き、権威ある者として教えた 23-26節 悪魔祓いの物語     23-24節 問題―汚れた霊     25節  解決―汚れた霊を叱る     26節  治療の証拠―けいれん、大声、汚れた霊が出て行く 27-28節 権威を持った新しい教えに驚いた     27節   応答(反応)―驚き、権威ある新しい教え、汚れた霊が命令を聴く     28節   全体的な結論―評判が「出た(広まった)」  今日の福音の構造に目を向けると、「権威を持つ者のような教えに驚いた」と述べる21-22節と「権威を持った新しい教えに驚いた」と述べる27-28節の間に、23-26節の「悪魔祓いの物語」がはさまれているのが分かります。  また、21節bではイエスが会堂に「入って」教えたとあり、28節ではイエスの評判がガリラヤ地方の至る所に「出た(広まった)」とあります。イエスが中に入って教えると、その評判が出て行くと述べることによって、イエスの「教え」が現す力(権威)を強調しています。このような枠に囲まれた「悪魔祓いの物語」は、イエスの「権威ある教え」の例証です。イエスの教えは、律法学者が掟を説くときのように単なる言葉や教説を語るのではありません。イエスが教える「神の国の福音」は、イエスその人のうちに実現しているからです。マルコは、悪魔祓いの奇跡の中に「神の国の到来」を読み取っているのです。  悪魔祓いの物語  23-27節は悪魔祓いの物語の典型的な様式を備えているので、元来、独立していた伝承と見ることができます。  (1) 悪霊が悪魔祓いを行う者に気づき、防禦(ぼうぎょ)を試みる(23-24節)  (2) 悪魔祓いを行う者はその防禦の試みを抑え、命令を与える(25節)  (3) 悪霊はすぐにそれと分かる仕方で追放される(26節)  (4) 目撃者が驚く(27節)  マルコは悪魔祓いの伝承(23-26節)とイエスの教えについての伝承(「人々はその教えに非常に驚いた┅┅権威ある者としてお教えになったからである」―22節)とを結びつけてひとつの物語をつくり(27節の「権威ある新しい教えだ」いう言葉も、そのときマルコが書き込んだものと考えられます)、さらに21節の導入句によって「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」(1章15節)というイエスのメッセージと「二組の兄弟の召命物語」(16-20節)につなげたのでしょう。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(18節)という全体的な結論もマルコの編集句です。これは3章7節の伏線となっています。  このような編集作業によって、マルコは、イエスの教えと行為(悪魔祓い)とが不可分に結合していることを強調します。イエスが「権威ある者として」教え、彼の教えが「権威ある新しい教え」であるのは、「行為」が伴っているからです、と。  今日の福音のまとめ  イエスは会堂で「教え始められた」(21節b)というのですが、マルコは教えの内容について何も伝えていません。イエスのメッセージが何であったか、マルコ福音書でははっきりしています。「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい」(1章15節)です。しかし、今日の福音ではただ、人々の驚きと、その理由として「律法学者のようにでもなく、権威ある者として教え始められた」(21b-22節)と述べるだけです。  マタイ福音書は同じ表現を使いますが。まったく違う文脈に置いています。マタイ福音書の「山上の説教」(5-7章)の最後に、マタイは次のように書きます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(7章28-29節)。  律法学者たちの教えは、旧約聖書の解釈とその適応について述べます。イエスの言葉はそのようなものではなく、神が今新たに何かを語っているようなメッセージでした。マタイでは、イエスの教えの内容の斬新さ(ざんしんさ)が、まさに神から与えられた権威に基づいているということになります。マルコは必ずしもそうではありません。  マルコは今日の福音でもう一度「権威」という言葉を繰り返します。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(27節)。マルコにとってイエスの教えが権威あるものだということは、教えの内容の新しさだけではありません。むしろ、その言葉に力があるということです。このイエスの言葉が、神から来たものであることを人々に感じさせるのです。  とにかく、ここではイエスは「神の国の到来」(マルコ1章15節)―神が王となり、私たちを救ってくださるというメッセージを語るのですが、それをただ約束として語るのではなく、目の前で今、「行為」―悪魔祓いをする(23-26節)ことを通して伝えるのです。                    2021年1月31日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第4主日 2021年1月31日 権威ある新しい教え マルコによる福音1章21-28節

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