2/21 四旬節第1主日ミサ 説教

2021/2/19

         荒れ野での試み―四旬節第1主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音1章12-15節  荒れ野での試み(12-13節)  第一の解釈:ユダヤ教の終末観による終わりの時(楽園時代の再現)を表す  ユダヤ教の終末観によると終わりの時には、初めの時(楽園時代→創世記1章26節以下と2章19-20節、イザヤ書11章6-9節)と同じように、野獣は人間に害を加えず従うといわれています。「十二族長の遺訓」という儀典には、次のように記されています。「子どもたちよ、お前たちもこれらを行え。そうすればベリアルのすべての霊はお前たちから逃げ去り、人間のすべての悪行はお前たちを支配せず、お前たちがすべての野獣を従える。天と地の神を味方につけるからであり、その神はふた心ない人と共に歩く」。  さらに「天使」の奉仕を受けることについても次のように記されています。「もしお前たちが善行をするなら、人と天使がお前たちを祝福し、神はお前たちのゆえに異邦人の間で栄光を受け、悪魔はお前たちから逃げ、野獣はお前たちを恐れ、主はお前たちを愛し、天使はお前たちと共にいる」。  マタイ4章11節やルカ4章13節では「悪魔が離れ去った」と書いてイエスの勝利をはっきりさせますが、マルコはそれを書きません。「野獣と一緒に」と「天使が仕えていた」が、上記の「神の国」(=神の支配)が完成する終わりの時を表しているなら、サタンへの勝利が間接的に言われていることになります。  第二の解釈:サタンへの勝利よりも試みに重点があると理解する  この段落(直訳)は下記のようにコンチェントリックの構造となっています。  a  そして すぐに 霊は 彼を 追い出す 荒れ野の中へ。     b  そして 彼はいた 荒れ野に 四十日        c 試みられて サタンによって     b´ そして 彼はいた 獣たちと共に、  a´ そして 天使たちが 仕えていた 彼に。  四十日の間、荒れ野に獣たちといたイエス(bとb´)は、サタンによって試みられたが(c 中心部分)、聖霊に守られ、天使たちが仕えていました(aとa´)。このような構造から見て、テーマがサタンへの勝利よりも「サタンによる試み」にあるのが明らかです。  この「サタンによる試み」をマタイとルカは4章1節以下で伝えていますが、マルコではイエスが受けた誘惑(試み)を具体的に描写しないし、サタンに対する勝利もほのめかされているにすぎません。  マルコでの「荒れ野」は、神的な勢力と悪魔的な勢力とがいまだに共存する場所となっています。私たちが生きる日常も神的な勢力と悪魔的な勢力が拮抗(きっこう)する場であると考えるなら、「荒れ野」は私たちの生きる日常の象徴と見ることができます。  イエスの宣教の開始(14-15節)  15節には福音(=良き知らせ)を運ぶイエスの使信が次のように要約されています。  ㋐ 「満たされた 時は そして 近づいた 神の国が。㋑ 悔い改めなさい、そして 信じなさい 福音を」。 このイエスの言葉は、原文では「満たされた」と「近づいた」が「そして」で結び合わされ、また、「悔い改めなさい」と「信じなさい」も「そして」で結び合わされています。㋐でイエスは起こっている事実を宣言します。この新たな事態にふさわしい生き方が㋑です。「悔い改め」とは新しい事態に合わせて、生き方を根本的に転換することですが、それはイエスが運ぶ福音を信じることです。  今日の福音のまとめ  今日の第二朗読Ⅰペトロ書3章20節と21節は「かつて」と「今や」によって、また「水の中を通って」と「イエス・キリストの復活によって」という表現で対応しています。ノアの家族だけは洪水に流されても「水の中を通って」救われました。「この水で前もって表された洗礼」とあるように(21節)、ノアの洪水の「水」は予型(よけい)であり、「洗礼」はその対型(ついけい)と見られます。「予型」とは、後から同じような形で起こるべきことのモデルとなる出来事を指し、「対型」とは予型に応じて、後で起こった出来事を指します。ここでは「洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」と述べており、洗礼は救いをもたらす源泉であることを明確にしています。  今日の第二朗読の18節に「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」とあります。キリストは人間の領域(肉)では苦しみを受けましたが、復活を起こす神の力(霊)によって生きる者とされました。洗礼によってキリストに結ばれた者はこの世で苦しんでも、終わりの時には復活のいのちに生きることができるのです。  今日の福音の荒れ野での試み(12-13節)「ユダヤ教の終末観による終わりの時(楽園時代の再現)を表す」という第一の解釈の立場にたつと、神の救いがイエスの荒れ野での滞在によって準備され、その福音宣教によって開始された(14-15節)、ということを主張しています。それゆえこの救いは、イエスの復活後、教会(洗礼を受けた者たち)の福音宣教(マルコ16章15-18節)によって、さらに全世界にもたらされることになります。  「サタンへの勝利よりも試みに重点があると理解する」という第二の解釈の立場にたつと、イエスが荒れ野で試みを受けたのは、同じ「荒れ野」(=日常)に生きる私たちを励まし、救うためです。私たちが受ける試みも、イエスが運ぶ福音を信じ、イエスと共に生きるとき、洗礼を受けた者として信仰を告白する機会とすることができるのです。                    2021年2月21日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教四旬節第1主日 2021年2月21日 荒れ野での試み マルコによる福音1章12-15節

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