4/26復活節第3主日ミサの福音 説教

2020/4/23

   復活のイエスと出会う場所はどこですか-復活節第3主日A年  新型コロナウイルスの感染拡大阻止のため、緊急事態宣言、外出自粛要請が出され、4月13日(月)~5月6日(木)まで、公開ミサを中止しています。主任司祭は、この期間、非公開ミサをささげますので、信徒の皆様は家で司祭と心を合わせてお祈りください。                          ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ルカによる福音24章13-35節  今日の福音(ギリシア語原文)の構成図 ———————————————————————————————————————————— イ13節 彼らはエルサレムからエマオへ歩きながら ⇒ ㋑33節 彼らは┅┅エルサレムに戻ると ロ14節 互いに語り合った ⇒ ㋺32節 互いに言った ハ15節 イエス自身が近づき彼らと一緒に歩いた ⇒ ㋩31節b イエスは彼らから見えなくなった ニ16節 彼らの目はさえぎられて、彼を認めることができなかった ⇒ ㋥31節a 彼らの目が開かれて彼を認めた ホ17-18節 イエスと弟子との応答 ⇒ ㋭28-30節 イエスと弟子との応答 ヘ19節 ナザレのイエスについて ⇒ ㋬27節 イエス自身について ト19節 彼は預言者 ⇒ ㋣27節 モーセと預言者たちから始めて チ20節 祭司長たちが死刑するため引き渡し十字架につけた ⇒ ㋠26節 キリストはこういう苦しみを受けて栄光に入るはず リ21節a 我々はイスラエルを解放するのは彼だと望みをかけていた ⇒ ㋷25節 預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち ヌ22節 仲間の婦人たちが 墓へ行った ⇒ ㋦24節a 仲間の者が何人か墓へ行った ル23節a イエスの体が見当たらないので帰り ⇒ ㋸24節b 婦人たちが言ったとおり、見当たらなかった ヲ23節b 天使たちの姿を見た ⇒ ㋾24節c 彼らは(婦人たちが言ったとおり、見当たらなかったことを)見た 23節c イエスは生きておられる! ————————————————————————————————————————————  以上のように今日の福音は交錯配列法で書かれています。〔語句の意味〕交錯(こうさく)┅┅入り交じること。交錯配列法は、例えば文章の構造がABCDⒸⒷⒶというように、中心句または中心テーマDを中心にして左右または上下の各部がそれぞれ対応するように配列されたものです。今日の福音の交錯配列法の中心は「イエスは生きておられる」(23節c)であり、内容的にもこれが中心になっています。今日の福音は、「生きておられるイエス(復活のイエス)と出会う場所はどこですか」というテーマをもって書かれています。   目が遮(さえぎ)られていた(13-21節)  「イエスは生きておられる」と聞いて墓を訪ねても、イエスには会えませんでした。落胆しエルサレムからエマオへと旅に出た二人の弟子(13節)の後をイエスは追い(15節)、どこで自分に会えるのかを教えます。エマオへの旅の道中、二人の弟子は、イエスの受難と死、そして「空の墓」の出来事が理解できず、互いに語り合っていたのかも知れません(14節)。そこにイエスが近づいて共に歩くことで二人はそれらの出来事の意味を知り始めます。このとき「二人の目は(イエスを認めないように)遮られていました」(16節)。  イエスは生きておられる(22-24節)  婦人たちは墓に行くと(22節)、イエスの体が見当たりませんでしたが(23節a)、天使に出会い(23節b)、「イエスは生きておられる」(23節c)と告げられ戻ってきます(23節a)。それを聞いた弟子たちが墓へ行くと(24節a)、墓の状況が婦人たちの言ったとおりであるのを「見ました」(24節c)が、イエスの体が見当たらないと述べています(24節b)。「生きているイエス」と出会う場所は墓ではなかったのです。  パンを裂く(25-35節)  イエスを認めないように目が遮られた(16節)二人の弟子は一口で言って失望の中にあります。「望みをかけていた」(21節a)と過去形でしか語りません。「イエスは生きておられる」という告知も、「告げた、と言うのです」としか受け止めていません(23節c)。旅人イエスは、このような人を「愚かな(直訳)」「不信で心が鈍い」(25節)と嘆きます。  目が遮られた二人の弟子が「イエスは生きておられる」という婦人たちの言葉を信じなかったのに、信じるに至るのは、旅人イエスが彼の受難と死とを自ら説明して(27節)、パンを裂く式においてです。彼らはパンを裂くときに目が開けてイエスであると分かった(30-31節a)、というのですから、彼らがエルサレムへと戻り、他の弟子たちに「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(35節)という、今日の福音の最後の文も、イエスとの出会いの場は「墓」ではなく、イエスが語る聖書に耳を傾け、イエスが裂くパンを食べるときだ、と教えています。  今日の福音のまとめ  遮られた二人の弟子の目は、旅人イエスが共に歩いて聖書を説明し、パンを裂くときに「開かれた」と述べています。これは「神によって開かれた」(神的受動態)の意味かも知れません。そうであれば、人間が生きておられるイエス(復活のイエス)を認めることができるのは、神によって目が「開かれた」ときだけです。  今日の福音は、エマオへの旅の道中にある二人の弟子に、イエスは旅人として「一緒に歩いた」(15節)という復活出現の物語です。私たちも信仰の旅の道中にいます。イエスは私たちと共に歩いています。聖書に耳を傾け、裂かれたパンにイエスの十字架を思うとき、私たちは共に歩む復活のイエスに出会うことができるのです。                  2020年4月26日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ‘20.4.26非公開ミサ福音説教原稿(復活節第3主日)

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