5/10復活節第5主日ミサの福音 説教

2020/5/7

 イエスを信じる者はもっと大きな業を行うようになる―復活節第5主日A年  新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、5月6日(木)まで出されていた緊急事態宣言が延長され、5月31日(日)まで公開ミサを中止します。主任司祭は、この期間、非公開ミサをささげますので、信徒の皆様は家で司祭と心を合わせてお祈りください。                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ヨハネによる福音14章1-12節  心を騒がせるな(1-6節a)  今日の福音は、最後の晩さんの席上で語られた「告別説教」(13章31節-16章33節)の最初の部分です。13章30節には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と述べられています。この「夜」は意味深長です。イエスは「光として世に来た」(12章46節)と言います。ユダはまさに「光」に背を向けて、罪の闇に向かって入ったのでした。イエスは弟子たちに「私が行く所にあなたたちは来ることはできない」と別れを告げます(13章33節、36節)。イエスに身を引かれてしまった外の世界=「世」(14章17節、14章30節、15章18-19節、17章14節)は夜の闇として演出され、イエスと弟子たちの最後の晩さんの席だけに光が輝いているのです。  闇の攻撃は凄まじく、イエスも死を覚悟したとき、「今、私は心騒ぐ」(12章27節)と、胸の内を吐きます。弟子たちは、光であるイエスが立ち向かった闇との戦いを受け継がなければなりません。その弟子たちにイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい」と呼びかけます(1節)。  信じなければならない第一のことは、2・3節に繰り返される「あなたがたに場所を用意するために(父のもとへ)行く」ということです。「場所」は「住む所」(2節)を言い直したものです。「住む所」は、原語では「モネ」で、これは「メノー」(留まる)という動詞から派生し、滞在すること、具体的には「住む所」(現代のマンション)を意味します。  第二に信じるべきことは、イエスは「道」(6節a)であるということです。一見並列されていると思われる道・真理・命は、同等の重みを持つ語ではありません。一番比重の大きいのは、最初の「道」です。その証拠に「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と、「道」のことしか言及されていません(6節b)。  イエスは道そのものであり、「真理と命」という「道」です。また「イエスは、真理であり命である父への道である」という意味にも取ることができます。ですから「真理、命」という語はイエスを指す語にもなりますし、父(神)を指す語にもなります。イエスは「真理と命という道」そのものであるから、「真理であり命である父(神)への道」でもあります。  信じる者はイエスの業を行う(6節b-12節)  イエスは「真理と命という道」そのものであるから、「真理であり命である父(神)への道」でもあります。こうして、6節bからはイエスと父(神)の一体性が強調されます。ですから「御父をお示しください」(8節)と願うフィリポに「私を見た者は、父を見たのだ」(9節)と言い、10・11節では「私は父の内におり、父が私の内におられる」と繰り返します。  「業そのものによって信じなさい」(11節)の「業」とは、ヨハネ福音書の前半に記されているイエスのしるしです。例えば、イエスはサマリアの婦人に「生きた水」を与え(4章)、ラザロに「命」を与え(11章)、生まれつきの盲人に「光」を与えます(9章)。これらはすべてイエスのうちに働いた神の業です。  イエスが父のもとへ行き、共に住む場所を弟子に用意することを信じ、イエスは真理と命を与える「道」であることを信じ、イエスと父(神)が一体であると信じる者は、イエスの業を行う者となります(12節)。  今日の福音のまとめ  聖書を読むときは三つの時点があります。(A)その出来事が実際に起きたイエスのときに返って読みます。(B)福音記者がある共同体に宛てて編集しているので、その状況、その時点に入って読みます。(C)今の自分たちに向けて語られる神のことばとして読みます。  (B)の時点で今日の福音をながめてみると、ユダヤ教から迫害と会堂からの追放を受けている一世紀末のヨハネ共同体の現実と体験を前提としています。イエスは「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来る」(3節)の「戻る」は、イエスは聖霊という形をとって再来し、イエスが弟子たちの内に現存していることを意味しています。今日の福音は、(Bの時点から見て)歴史的にはおよそ60年も昔のイエスの生前最後の晩さんの場面(Aの時点)を描いているのです。そして、イエスが出会った「ユダヤ人たち」の拒絶(ということは、それと重ね合わせて、ヨハネ共同体が現実に直面しているユダヤ教の拒絶)についても振り返り編集しています。しかし、この「ユダヤ人たち」という表現が今日の福音の直前の13章33節の言及を最後に以後一度も用いられていません。なぜなら、「ユダヤ人たち」の拒絶・不信仰・迫害が「世」の拒絶・不信仰・迫害と言い直されているからです。ヨハネ共同体の外の世界=「世」は、夜の闇として演出されています。  イエスを「信じる者は┅┅もっと大きな業を行うようになる」(12節)とは、イエスが父のもとへ行った(12節)後に弟子たちに与えられた聖霊の働きを指します。ヨハネ共同体は聖霊によってうながされ、闇である外の世界=「世」へ宣教を開始したのです。  イエスは、今日の福音の直後の13節で「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言います。この約束は、イエスを「信じる者は┅┅もっと大きな業を行うようになる」と密接に関係しています。イエスは、自分と父(神)との関係を「信じないのか」(10節)ととがめ、「信じなさい」(11節)と命じます。信仰の次元の話だからです。結局、(Cの時点の)私たちが求められているのは、イエスの名において祈ることなのです。                  2020年5月10日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ‘20.5.10非公開ミサ福音説教原稿(復活節第5主日)

お知らせ一覧へ戻る