5/17復活節第6主日ミサの福音 説教

2020/5/16

         聖霊はつかめません―復活節第6主日A年  新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、5月6日(木)まで出されていた緊急事態宣言が延長され、5月31日(日)まで公開ミサを中止します。主任司祭は、この期間、非公開ミサをささげますので、信徒の皆様は家で司祭と心を合わせてお祈りください。                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ヨハネによる福音14章15-21節  私を愛しているならば(15節)  15節に使われる「私を愛する」・「私の掟」・「守る」が21節にも登場します。今日の福音は15節と21節によって囲い込まれています。  「私を愛しているならば、私の掟を守る」(15節)。  「私の掟を┅┅守る人は、私を愛する者である」(21節)。  15節は21節とは違って「イエスへの愛」が「掟を守る」ことの前提とされています。  「私の掟」とは、相互愛の掟「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)です。また、今日の福音のすぐ後(23節)に、「私を愛する人は、私の言葉を守る」とありますが、この句は15節の「私の掟」に代えて、「私の言葉」に入れただけだと言えます。ですから、イエスの「掟」とは、「相互愛の掟」だけでなく、「イエスの言葉」とも言えます。  孤児(みなしご)にはしておかない(16-20節)  16-17節では、父が弟子たちに与える「別の弁護者」がテーマとされているのに対し、18b-20節では、弟子たちの所へ来る「私=イエス」がテーマとなっています。  イエスが父のもとへ去った後、「別の弁護者」だけでなく「イエス」も「あなたがたとともに」来て(17節、18節b)、「あなたがたの内に」留まります(17節、20節)。だから、この段落の中心18節aでは、「私はあなたがたを孤児にはしておかない」と言います。  今日の福音は聖霊を「パラクレートス」と呼びます。「パラクレートス」とは、元来、「傍らに呼ばれた者」ということであり、発言の目的によって、「慰め主」とか、「助け主」とか、 「弁護者」とか、訳されています。パラクレートスは「別の弁護者」(16節)と呼ばれています。もう一人の弁護者がいるわけで、それはイエス自身です(18b-20節)。イエスは父に願って、もう一人の自分である聖霊(「真理の霊」と呼ばれます(17節)。つまり、イエスの霊ということになります)を派遣することを約束します。「真理の霊」とは、弟子たちに真理(=イエス)を証しして悟らせ、イエスの教えを思い起こさせ、彼らを誤謬(ごびゅう)から守る聖霊のことです。  掟を守る者は(21節)  「私を愛しているならば、私の掟を守る」(15節)。  「私の掟を┅┅守る人は、私を愛する者である」(21節)。  15節は「イエスへの愛」が「掟を守る」ことの前提とされ、21節は「掟を守る」ことが「イエスへの愛」の前提とされ、前提と結果が逆になっています。このことが示すように、「イエスの掟を守ること」と「イエスを愛すること」とは、どちらが先とは決められないほどに密接に関わり合っています。  イエスは「私を愛する者」は「私の父に愛され」、私も「その人を愛する」と述べます。イエスの掟を守ることはイエスを愛すること、イエスを愛することは父と子との交わりにあずかることなのです。  ヨハネ福音書が書かれた一世紀末のユダヤ人社会では、イエスをキリストと告白することは村八分にされることを意味しました(9章22節)。しかし、ヨハネはイエスを信じる共同体を満たしている聖霊は「別の弁護者」(16節)なのであり、決して「孤児」とはされていない(8節a)、と説いています。このような聖霊の働きに包まれ、助けられて、ユダヤ人社会から迫害を受けても、イエスの掟や言葉に生きることができます。  今日の福音のまとめ  聖書を読むときは三つの時点があります。(A)その出来事が実際に起きたイエスのときに返って読みます。(B)福音記者がある共同体に宛てて編集しているので、その状況、その時点に入って読みます。(C)今の自分たちに向けて語られる神の言葉として読みます。  今日の福音は(B)と(A)の時点を行き来しています。「あなたがたは(既に)この霊を知っている」(17節)と言います。また、「私が生きている」(19節)とも言います。イエスは「生きている者」として弟子たちによって「見られる」のであって、この世によって見られるのではなく、弟子たちはイエスを彼らの内に生きる者として見られるのです。つまり、聖霊の働きによって現存するという(Bの時点にいる)ヨハネ共同体における聖霊体験なのです。  ヨハネ福音書では、イエスは「私は〇〇である」と自己規定をします。「私は┅┅パンである」(6章35節他)。「私は┅┅光である」(8章12節)。「私は┅┅門である」(10章7節)。「私は┅┅羊飼いである」(10章11節他)。「私は復活であり、命である」(11章25節)。「私は道であり、真理であり、命である」(14章6節)。「私は┅┅ぶどうの木である」(15章1節)。  聖霊はイエスのように「私」という人称代名詞を用いられていません。聖霊は、私たちの内で聖霊が働かれることを通して、私たちに示され、知られるのです。「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである」(17節)。「私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私もあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(20節)。  「水はつかめません」。知性だけで「聖霊はつかめません」。(Cの時点にいる)自分の聖霊体験を問うことが必要なのです。                    2020年5月17日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ‘20.5.17非公開ミサ福音説教原稿(復活節第6主日)

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