5/24 主の昇天ミサ の福音 説教

2020/5/22

        いつもあなたがたと共にいる―主の昇天A年  新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、緊急事態宣言が延長され、5月31日(日)まで公開ミサを中止します。主任司祭は、この期間、非公開ミサをささげますので、信徒の皆様は家で司祭と心を合わせてお祈りください。                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音28章16-20節  指示しておかれた山(16-18節a)  復活後、ガリラヤの「山」(16節)に現れたイエスに、弟子たちはひれ伏しますが、疑いも生じています(17節)。しかし、イエスは疑いを残している者に近づきます(18節a)。 イエスの指示しておかれた「山」がどの山かは明示されていません。ある解説書は、ガリラヤの山なので、山上の説教(5章1節-7章29節)の場所へ戻っている、と解釈しています。山上の説教のイエスは、「天と地の一切の権能を授かっている」(18節b)者として、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる」(5章20節)彼の弟子の義を教える「教育者としてのイエス」を自己提示します(19節の「すべての民を私の弟子にしなさい」と関連しています)。〔語句の説明〕義(ぎ)┅┅正しい行い。  「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである」(7章21節)。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(7章24節)。「私の言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7章26節)。  このように山上の説教は、イエスの弟子として教えを少しでも実行したときに意味を持ちます。だから、イエスは弟子に対して、教えを守る(20節の「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と関連しています)という行動を促すのです。  イエスの言葉(18節b-20節a) 1.「私は天と地の一切の権能を授かっている」(18節b)  この発言は「すべてのことは、父から私に任されています」(11節27節)という、同様の宣言を思い出します。この節(11章27節)は、啓示するイエスの権能がそこでのテーマを示しているのに対して、18節bでは、支配するイエスの権能を念頭に置いています。〔語句の説明〕啓示(けいじ)┅┅神が人の前に現れ教え示すこと。第二朗読では、キリストであるイエスは、死と復活を通して「神の右の座」に挙げられたと言います。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(エフェソ書1章20-21節)。これは、「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで」支配するということです(Ⅰコリント書15章25節)。キリストであるイエスは「教会の頭(かしら)」(エフェソ書1章22節)として、「いつも共にいる」(20節b)方として、父から授かった権能を行使しているのです。 2.「行って、すべての民を弟子にしなさい」「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19-20a節)  ① 弟子にしなさい  動詞を拾い上げると、「行って」「弟子にしなさい」「授けなさい」「教えなさい」となりますが、主動詞である「弟子にしなさい」以外はすべて分詞形ですから、イエスの命令の要点は「弟子にしなさい」にあります。弟子たちはすべての民のもとへ行って、人々を「弟子にする」ことになりますが、それは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」こと、そしてイエスが「命じておいたことをすべて守るように教える」ことによって具体化されます。  ② 父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい  直訳は「父と子と聖霊の名の中に(沈める)」。洗礼は父と子と聖霊の交わりの中に人々を招き入れるものです。  ③ 命じておいたことをすべて守るように教えなさい  マタイでは、「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というマルコ16章15節とは異なって、固有の意味での宣教命令はありません。それ自体では宣教活動と関連がない「弟子にしなさい」「洗礼を授けなさい」「教えなさい」という用語が使われています。即ちマタイでは、このイエスの命令を弟子個々人ではなく、教会の命令へと昇華させています。 3.「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節b)  「弟子にしなさい」「洗礼を授けなさい」「教えなさい」(19-20節a)という命令の実現を根拠づけるのは、イエスが今もなお「あなたがたと共にいる」という言葉にあります。つまり、イエスは教会の中に世の終わりまでおられ、教会を通して「教育者のイエス」として「教える」(20節a)ことが可能となり、任務となるのです。  教会の中には疑う者もいましたが(17節)、イエスは「弟子にしなさい」と命令し、派遣します。「天と地の一切の権能」(18節b)を持つイエスが、「あなたがたと共にいる」という約束をもとに派遣しているのですから、「教える」(20節a)弟子たちは他人だけでなく、自分自身にも「教える」ことになります。「教える」中で疑いが徐々に消えてゆきます。  今日の福音のまとめ  14章28-31節では、「恐れ」が「疑う」という言葉で表されています。コロナウイルスの感染症は私たちに「恐れ」を抱えさせ、「恐れ」は別の角度から捉えると「疲れ」となります。今日の福音では疑う弟子たちにイエスが近寄ります(17-18a節)。このイエスの「天と地の一切の権能」を持って(18節b)「いつもあなたがたと共にいる」という言葉(20節b)を信頼することで、私たちは「疑い」(恐れと疲れ)を乗り越えることができるのです。                    2020年5月24日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ‘20.5.24非公開ミサ福音説教原稿(主の昇天)

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