5/31 聖霊降臨の主日ミサ 説教

2020/5/29

   聖霊が与えられ、使命が授けられ、派遣される-聖霊降臨の主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   第1朗読;聖霊が降る(使徒言行録2章1-11節)  「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1-4節)。  五旬祭は、ユダヤ教の人々にとって、イスラエルの民がエジプトから脱出して50日目に、シナイ山で神がご自分の民と契約(十戒 新しい契約に対して旧い〔ふるい〕契約と呼んでいます)を結ばれたことを記念する大きな祭りです。イエスが復活してから、50日目に当たる五旬祭の日に聖霊が降ったことは、神とその民の間で新しい契約が結ばれたことを示しています。新しい契約による新しい神の民である教会が誕生したのです。  聖霊は、激しい風のような音を伴って、炎のような舌のしるしで降臨しました。炎は焼き滅ぼしてしまう火ではなく、冷たいものを温める火を表し、舌は言葉や言語を表しています。聖霊降臨によって誕生した教会は、神の愛の熱を、言葉を通して告げ知らせる使命と力が与えられたのです。  旧約聖書には、神を神と崇めず(あがめず)、神なしで町を築こうとした人間の高慢さが「言葉」の混乱を招いた「バベルの塔」の物語(創世記11章1―9節)が記されています。これとは対照的に、聖霊の降臨によって人々は、「言葉」の壁を超えて一つに結ばれていきます。聖霊は私たちを一つにする役割があるのです。  第2朗読;霊的な賜物(Ⅰコリント書12章3-7節・12-13節)  パウロは、私たちがキリスト者であるということ自体が聖霊の働きによると述べた(3節)後に、キリスト者1人1人が持っている能力は、すべて聖霊から分け与えられたものだと教えます(4節)。「賜物」も「務め」も「働き」もすべて「同じ霊」によって分け与えられたものであり、神がすべてを分け与えています(5-6節)。しかも、1人1人に霊が働いて様々な賜物を与えるのは「全体の益」となるためであるとパウロは考えています(7節)。  13節に「一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。ですから、霊の現れは1人1人違っていても、それがもたらす「利益」は各人が独り占めすべきものでなく、「一つの全体」すなわち、すべてが神によって一つとされた「体」のためです。  パウロが述べる「一つ」は人が作り出すのではなく、神がキリストを通して聖霊によって作り出す「全体」です。パウロにとってはこの「一つ」がすべてなのです。  福音:イエス、弟子たちに現れる(ヨハネ20章19-23節)  イエスは最後の晩餐のとき、弟子たちに言います。「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16章7節)。イエスは、これらの言葉によって、自分の死と復活の後に、その実りとして弁護者(=聖霊)の派遣を約束します。  イエスの十字架上での死を目の当たりにした弟子たちは、思いもよらない悲しい出来事に落胆していました。また、イエスを見捨てて逃げた自分たちのみじめさを思って途方にくれ、ユダヤ人たちを恐れて、自分たちがいる家の戸に鍵をかけて隠れていました。そこへ、復活したイエスが来て弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言って、彼らを赦し、安心させます。そして、イエスから手とわき腹とを見せられた弟子たちは、イエスは復活して生きていることを確信して喜びます(19―20節)。  イエスは弟子たちに、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言ってから、彼らに息を吹きかけて、聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と告げます(21-23節)。こうして復活したイエスは弟子たちにご自分の平和と聖霊を与えます。イエスは復活し、弟子たち(=教会)を通して聖霊を授ける者になったのです。  今日の朗読のまとめ  今日の朗読で大切なことは、復活のイエスから聖霊が与えられ、弟子たちに使命が授けられて派遣されるという点です。神がアダムの上に命の「息」を吹きかけたように(創世記2章7節)、イエスは弟子たちの上に「息」を吹きかけます(ヨハネ20章22節)。「風」「炎」(使徒言行録2章1節)は「息」と同じように聖霊を表します。このように第一朗読の聖霊降臨物語は、教会の誕生と世界宣教の開始という二つの意味があります。宣教は「聖霊に満たされ」(4節)、開始されます。教会はこのために用いられる道具に過ぎないのです。  教会が遂行すべき宣教の具体的な使命は「人々の罪を赦す」(ヨハネ20章23節)ことです。カトリック教会は「赦しの秘跡」の神学的根拠の一つをこの表現に認めています。ある解説書は、聖霊によって、教会は罪を赦し合う者の共同体とされ、赦し、赦されるという使命を受け、派遣されたと説明しています。  また、聖霊降臨物語は「神の偉大な業を語っている」(11節)と言う好意的グループと「新しい酒に酔っているのだ」(13節)と言う批判的グループの二つに教会が分かれたことを伝えています。コリントの教会には自称「霊の人」と名乗る人々がいました(Ⅰコリント書14章37節)。パウロは、霊を語る人はイエスを語り(12章3節)、霊によって1人1人に与えられた能力(12章4-7節)は、神が作り出す「一つの体」即ち教会の使命と派遣のために用いるものであると(12章12-13節)、霊と結ばれた者のあり方を明らかにします。                    2020年5月31日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 ‘20.5.31非公開ミサ福音説教原稿(聖霊降臨の主日)

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